出会ったのは去年。初めてその姿を見た時、一つ学年が上というだけなのに、あまりにも大人っぽいから、とても緊張した。
それからしばらくして、初めて面と向かって挨拶程度の会話をした時、その声にやはり緊張した。
そして、忘れもしない。他愛ないことを話していて、ふと笑みをこぼしながら大きな手がポンと頭に触れた時。

私は一瞬で、恋に落ちた。



もうすぐ、バレンタインがやってくる。2月に入って、テレビのCMや街中のディスプレイを見るたびにソワソワしてしまう、と自分でも気づいていた。だってしょうがないじゃない、待ちに待ったバレンタインなんだもの。落ち着けるわけが、ない。

「うー…どうしよー…」

ここ一週間程、私の悩みはチョコだ。チョコを、買うべきか、作るべきか。それをもう何日も悩んでいる。

「作る気があるんなら作ればいいじゃん、どうせ今年のバレンタインは月曜だし」
「そうだけど、でもなぁ…出来るかなぁ」

ぐだぐだ悩む私に、友達のは呆れた顔で「溶かして固めりゃいいだけじゃん」と言い捨てる。そうだけど、そうなんだけど…作るのならばそれなりに凝ったものを作りたいのだ。そこは、柄じゃないけど、乙女のプライドとでも言っておこう。

「見た目がきれいなのは、やっぱり買うのだよねぇ…失敗するってこともないだろうし。でもなぁ、手作りってそれ以上の価値がありそうなんだよなぁ」
「…、アンタ自分の経験値分かってるんでしょうね」
「……だから、悩んでるんですよ」

彼女の言うとおり、私は料理全般の、経験値が低い。作ると不味いとかそういうのではなく、そもそも作ったことがほとんどない。ご飯を炊いたり、パスタを茹でてソースに絡めるくらいは出来る。味噌汁も、カレーも、頑張ればいける(はず)。が、ちゃんとしたおかずとか、何よりお菓子作りとか、そういった経験がほとんどなかった。

「せいぜいホットケーキ焼くとか、白玉だんご作るくらいだもんなぁ」
「そういや、調理実習でベタベタ定番なクッキー焼いたときも、型ぬきばっかやってたもんね」
「まぁね。手際のよい得意な子が同じ班にいたら、そりゃあその子に任せるでしょう」

あーもーどうしよーと項垂れて私は机に突っ伏した。出来ることなら買わずに作りたい。でも自信がない。あげるからには完成度の高いものが良いと、見栄のような意地のような、そういうものが邪魔をする。

「んーとりあえず、作れそうなレシピ探して、作ってみて、ダメだったら買いに行けばいいじゃん」
「えー…出費が…」
「金を惜しむな。死ぬ気でやれ」

ピシャリと言い切った彼女に私はしばしの沈黙ののち、小さく「はぁい」と気の抜けた返事をした。これも、恋する女子への試練なのか。ハードルはなかなか高い。

「そんじゃ、まずは図書室で初めてのお菓子作り〜とかいう本でも探してきな」
「え!うちの図書室あるの?」
「あるある。去年偶然誰かが返却してるのみたし。まぁ初心者向けかは分かんないけど、ちゃんとしたお菓子作りの本だったよ」
「そっか…本屋でみても、買う程のお金ないし、行ってこようかな」
「ハイハイいってらっしゃーい」

まるで野良猫を手で追い払うかのように送りだされ、私は手伝ってはくれそうにない友人にため息をついて、階段を上って図書館を目指した。


「うわ…意外と料理本いろいろある…」

床にしゃがみこんで、奥の棚の下段を覗き込みながら、小声で一人呟く。予想以上にいろいろな本があったので、一冊ずつ取り出してはパラパラとページを捲って中身を探る。

「うーん…洋菓子図鑑は、これ、本格的なパティシエとかの作り方っぽいよね…無理無理」

材料名といい、使う調理器具の名前といい、半分近く分からないものでは、超ド級初心者の私には作りようがない。諦めて大きなその本を棚に戻し、今度は『スイーツはこれで決まり!本格お菓子作り』とやたら可愛らしい表紙の本を手にとってみる。

「『本格』ってなってるもんなぁ…あー、ダメ、無理。粉とかそういうの全く分かんないし、すっごい手間かかりそう」

だめだー、とそれも棚に戻す。他には無いかと見渡す。ところどころに本が抜かれた跡があって、この時期なのだから他に借りている人がいてもおかしくはない。目ぼしい本がなかなか見つからず、私は念のため、と返却棚もチェックすることにした。

「種類もそこそこあって、簡単そうなのがあればいいんだけど…」

やっぱり本屋に行くか、インターネットで調べるしかないかなぁと諦めかけていた時、ふと『カンタンお菓子レシピ』というタイトルが目に飛び込んできて、私はすかさずその本を抜き取った。

「あ、あった…」

先程の本格レシピ本ほどではないが、そこそこのページ数があり、嬉しいことに表紙には『初めてでも大丈夫』とか『誕生日やバレンタインはコレ』というフレーズもあり、私は両手でその本を胸に抱え、出来るだけ奥の開いている席に座り、本を開いた。

「おぉ…チョコ系統もいろいろある」

目次をみると、カテゴリー毎に分けられており、チョコ関連のものにはきちんとマークがついている。とりあえず、最初から順に見ていこうとページを捲った。そこには、美味しそうなケーキの写真と作り方の手順がイラストで載っていて、材料や調理器具も、家庭で十分順に出来そうなものだった。私はざっと作り方の手順に目を通し、自分にも出来そうなものかを考えながら、ページを進めていった。作りやすい、ラッピングも困らない、それでいて、長時間形も味も保てるものがいいと、それなりに頭の中でイメージを固めながら、一つひとつ丁寧にチェックしていった。

5分くらいは経っただろうか本のページも真ん中辺りに来たところで、ふと、影が落ちてきたことに気付き、私はそろりと顔をあげて正面を見上げた。そして、うっかり、悲鳴をあげそうになった。

「!!!」
か、珍しいな」

ふっと口元に笑みを浮かべる、男の人なのに綺麗すぎるその人は、紛れもなく柳先輩だった。

「や、柳せんぱい…っ」
「あぁ、そのまま続けてくれ。見なれた姿があったので、つい声をかけてしまった」

小さく、低く囁かれる声に、心臓が恐ろしい程活発に動く。私が視線を漂わせておろおろとしていると、柳先輩が「向かい、空いているか」と尋ねてきたので、私は首がもげそうな勢いで大きく頷いた。その時、柳先輩の手元には日本史の辞典とノートがあるのが分かった。勉強しにきたのかな、と考えていると、私の視線に気づいたのか、柳先輩が「歴史の課題でな」と小さく囁く。そのまま課題を始めるのかなと見ていると、柳先輩はシャーペンを持たず、僅かにこちらに顔を寄せてきたので、私は飛び上がりそうになった。

「お前は何を読んでいるんだ?」
「え!?あ、えと…!」

ハッとした私は、咄嗟に両手を目いっぱい広げて自分の本を隠そうとしたが、それなりの大きさの見開きのページ、それも大きくお菓子の写真が載っているものを全て覆い切ることは出来ず、あまりの恥ずかしさに全身が燃えてしまいそうだと思った。まさか、本人にこれを見られるとは…なんたる失態!

「ほう、レシピ本か……なるほど、もうすぐバレンタインだから」
「…っ」
「あ、あぁすまない。こういうものは男が覗き込むものではないな」

悪かった、と申し訳なさそうに苦笑を浮かべながらすっと上半身を引く柳先輩に、私はなんとかぎこちないながらも笑って「い、いえ、大丈夫です…」と返した。そして、何とか落ち着こうと静かに深呼吸をして、自分を落ち着かせた。見られてはしまったものの、誰宛かまでは知られていないのだから大丈夫だと考え、意識されていないことに多少凹みはしたが、それはもとより承知の上だったので諦めた。

「そういう菓子作りが好きなのか?」
「!あ、えっと…好きって程やったことが無くて…」
「そうか。甘いものは好きなようだから、自分で作るのかと思ってな」

サラリとそう言った柳先輩に、私は驚いて目を見開いた。なんで、私が甘いもの好きなの、知ってるんだろう。もしかして、私のデータまでこの人は知っているのだろうか。まさか、それはさすがに…学年も違うし、顔見知りではあっても、繋がりはほとんどない。けど、この人だったらあり得なくはない、かも…。

「あの、どうして、私が甘いもの好きだって、知ってるんですか」

おずおずとそう尋ねると、柳先輩は本から顔をあげてこちらを向く。距離の近さに心臓の鼓動は早い。課題の邪魔をしてるかもと焦ったが、特に困ったり迷惑そうでも無かった(と思う…多分)ので、私はどきどきしながらも柳先輩の言葉を待った。

「連絡事項で赤也を訪ねたとき、その度に隣で購買やコンビニで売っている菓子を机に置いていたろう。それらのほとんどがチョコやクリームといった甘いものだったからな」
「そ、そうですか…」

先輩の言うとおり、私は休み時間やお昼など、しょっちゅうお菓子を食べていた。先輩は私の切原にテニス部の用があって、私と切原は廊下側の一番ドアに近い位置に座っていて、いつも二人でお菓子を食べてしゃべっているところに、柳先輩が現れた。まさか見られているとは思わず、恥ずかしくてたまらない半面、そんな些細なことでも気付いて貰えたことが心底嬉しかった。緩みそうになる口元を必死に抑え込み、私は折角のチャンスだから、と大胆な行動に出た。

「あ、あの…柳先輩は、どういうお菓子だったら、好きですか?」

思ってた以上に直球な質問になってしまった。これじゃあ「貴方の為に作るんです」って言ってるようなものじゃないか!と後悔してももう遅い。ここまで言ってしまったのだから、収穫は欲しい。落ち着かない様子で柳先輩の方を見ていると、先輩は顎に手を当てて、考えているようだった。

「あ、あの…すみません、変なこと聞いて…」
「いや、それほど詳しくはないので、あまり思いつかなくてな。よければその本を少し見せてくれないか?」
「え、あ、ハイ」

慌てて本を先輩の方に向け、ずずっとお互いの真ん中あたりに差し出すと、柳先輩の綺麗な手が伸びてきて、何枚かページを捲った。大きくて骨ばった手にどきどきしながらも、先輩の反応を待つ。

「ふむ、そうだな…これなんかは、赤也が好きそうだが…」
「あ、あー…チョコクランチ…」

ザクザクしたチョコの写真に、確かにそうかも…と納得する。が、残念ながら私が知りたいのは切原の好みではない。彼は確かに恋のキューピットだと(私が勝手に)思ってはいるが、どうでもいいといってしまえばそれまでだ。私が知りたいのは、柳先輩の好みだ。

「あの、先輩は、こういうチョコとか、食べたりしますか…」
「全く無いこともないが、どちらかというと和菓子の方が多いかもしれんな」
「わ、和菓子…」

いや、イメージ通りで、まさに柳先輩!って感じはするけど、バレンタインの贈り物に和菓子はなかなか厳しいものがある。雰囲気的にも、技術的にも。私は現実を突きつけられ、大いにショックを受けた。随分無謀な挑戦を、しているのかもしれない…。

「甘いものが不得意というわけではないのだが、まぁ控えめな方が好ましい」
「は、ぁ…控えめ…」

控えめって、なんだろう。ビターチョコとかならいいんだろうか。基準がイマイチわからない。仮にそうだとして、ブラウニーやマフンて、ビターチョコでも美味しいのかな。というか他に砂糖が入ったら甘くなっちゃうのかな…と、なんとか動く頭で考えるものの、経験値の低い私には、どこからどこまでがセーフでどれがアウトなのかがさっぱり分からなかった。完全に先ほどの勢いを失ってしまった私は、ただ茫然とページを捲る柳先輩の手を見つめていた。想っていることは出来ても、伝えるために行動するのは、かなり難しいものだ。

「これは…ほう、チョコ餅とは、面白いものもあるな。餡の代わりにチョコとは、斬新だ」

柳先輩の声につられ本を覗くと、真ん中にチョコの入ったモチモチしたお菓子の写真があった。和菓子でチョコの両方をギリギリクリアしてはいるものの、バレンタインの贈り物にふさわしいかは微妙だった。興味と笑いはとれそうだけど。

「だがまぁ、一番大事なのは、どんなものかではなく、作ったという事実と、気持ちだろう」
「…気持ち、ですか」
「あぁ。例え食べられなくとも、その気持ちは純粋に嬉しいものだ」

優しげな声の、その言葉は、じわりと私の心に浸透していく。出来れば見た目も味も良くて、バレンタインにふさわしいものが贈りたい、それは贈る側の誰もが思っていることだろう。けれど、最も重要なのは、『贈る』という行動そのものと、先輩の言うとおり『気持ち』なのかもしれない。可能性は、まだゼロはないのかもしれないと思うと、もうちょっとだけ頑張ってみようかなと思えてくる。

「そう、ですよね…ありがとうございます」
「いや、あまり役に立てず申し訳ないな」

柳先輩はやっぱり綺麗な笑みを浮かべていて、私もへにょりと笑った。まだ時間があるし、もうちょとだけ、考えてみようと思った。
いい加減先輩の課題の邪魔をしてはいけないと、先輩の手がレシピ本から離れるタイミングを見計らって、そっと本を引き寄せる。もう少しだけ、ここで本を眺めていてもいいかな、と考えていると、ふいに柳先輩はケータイを取り出し、液晶を見つめていた。そしてパタンとそれを閉じると、苦笑交じりに「どうやら呼び出しのようだ」と言う。

「…テニス部、ですか?」
「あぁ、部長と副部長でミーティングの打ち合わせをな」
「あ、私…すみません、思いっきり課題の邪魔しちゃいました…っ」
「いや、いい。どうせこれは来週までのもので、やる時間はいくらでもある」

申し訳なくなって頭を下げると、柳先輩が立ち上がりながら優しくそう言ってくれて、ますます申し訳なくなった。しばらく下を向いていて、でももう先輩は行ってしまうのだと思うと名残惜しくなり、私はゆるゆると顔を持ち上げた。すると、立っている先輩と目が合い、先輩の大きな手がこちらに伸びてきて、ポンッと頭の上に乗っかった。

「!」

驚いて先輩の顔を凝視してしまう。心臓が先ほど同様早鐘を打ち、顔がだんだんと熱くなる。ああ、こんなんじゃすぐにバレてしまいそうだ、と胸の内で焦っていると、柳先輩がゆっくりと腰を折って上半身ごと近寄ってきた。そして、顔のすぐ近くで、先輩の声が響く。

、」

先ほどの優しげな声とは違う、低く、どこか不敵な色をした、声に呼ばれる。

「俺は甘いものはそれほど得意ではないが、お前からならば喜んで受け取るぞ」
「…!!」

初めて聴く、艶めいた囁きに、私は自分の身体が大きく震えたのが分かった。血が、ふつふつと沸き始める。頭がクラクラして、倒れそうだと思ったとき、その手がすっと髪を撫でるように滑り、柳先輩も身体を起こした。手が離れる瞬間、僅かに頬を掠めていった気がしたのは、気のせいなのだろうか。

「週明けが楽しみだな」

どこか楽しそうな声色でそうつぶやいた柳先輩に何と返せばいいのか分からず、私は恐らく真っ赤であろう顔のまま、先輩を見上げてしまう。もう一度目があって、先輩の口元が綺麗に弧を描いた。

「あぁそれと、たとえ義理でも、くれぐれも赤也には渡さないでくれ」

そう言い残し、柳先輩は静かに図書室から出て行った。
私は、背もたれからずるずると落ち、両手で熱い顔を覆う。

「うう…週末、練習しなきゃ…」

気合は、十分入れて貰った。



君を、知りたい。
悪いが俺の方が先に恋に落ちた確立、100%、ということだ。