真夏を迎える少し前、連日続いていた雨があがり、久々にからりと晴れた夏日。一歩外界に踏み出せば汗ばむこのお天気の中、私は血の気を引かせていた


朝の通勤通学ラッシュ、車両に詰め込まれた乗客はおそらく店員オーバーしているだろう。どんなにクーラーを効かせた車内でもこれだけ人を密着していれば心地よいとは程遠い。妙にしとりした生ぬるい温度に耐えながら大学に向かう私は、この瞬間ほど実家暮らしを辞めたいと思うことは無い。せめて朝から汗をかくのだけは免れたいと思い、今日の最高気温を確認してからしっかり薄着を選んできた。それが、まさか今日に限ってこんな目に遭うなんて。

「…」

前の駅で一層車内が混み合って、周囲と密着するようになってからだ。控え目だけれど、確実に、その手は私のおしりに触れている。最初に違和感を感じた時は、勘違いかなと思った。誰かの鞄とかが当たってるのかな、なんて。けれど、妙に生暖かくて少しだけれど動きがあることに気づき、まさか…!とやっと気づくことができた。
けれど、気づいたところで現状は全くもって変わっていない。

(声、あげればいいの…)
(やめてください、って、言えばいいのかな…)
(でも、身動きとれないし…ちゃんと顔とか手とか確認したわけでもないし…)

考えれば考えるほど、言いだせなくなる。だって、こんなの生まれて初めてだ(友達はよく遭うって言ってたけど…実際ホントにこんなことあるんだ…!)
大胆ではないけれど無遠慮なその動きは、正直、とても・・・

(気持ち悪いぃ〜っ…!)

蒸し暑いはずなのに、腕から首まで一気に鳥肌がたつ。折角先週買ったお気に入りのスカートおろしたのに、と思いつつも、こんなことだったら夏日だとしても、いつものデニムスカートにレギンスの組み合わせにしておけばよかった…と反省半分、自分への怒り半分。ああ、サイアク。

(次の駅…で開く扉って、反対側なんだよね…)

自分に近い方の扉を見て、ますます悲しくなる。さらに残念なことに、次の駅で降りる客はあまり多くない。いっそ流されるように降りることが出来たらどんなに楽だったか、と思うともうなんだか涙が出そうになった。

(次の次…!そしたらいっぱい降りるから一旦降りて一本遅らせよう…っ)

唇を噛んで、ぎゅっと目を瞑る。現実逃避しようと必死に課題のレポートのことを考えるが、これがまた難しかった。そうこうしている内に、次の駅に近づいていた電車は一気に減速し始める。慣性の法則に従って、一斉に誰もが前のめりの姿勢になる。僅かな動きでどうにか身体をずらそうと試みたが、結局上手くいかず先ほどよりもその感触がダイレクトに伝わってきた。そして、

(ひ、っ…!!)

おしりをやわやわと撫でていた気色悪いその手が僅か一瞬の内にスルリと内腿を下ったのだ。さすがにこれ以上は耐えられないと思い、扉が開き次第すぐにでも車両を出ようと決心した。

(早く…はやくっ、おねがい…っ)

ゆっくりと電車が停まり、背後で扉が開く音がした。数人が降りたおかげでほんの僅かに生じた隙間に逃げ込み、必死に前進しようともがく。

「あ、あの!降りますっ、おりして、くださいっ …!」

叫ぶ声に涙の色が混じっていて、なんだかもう自分で情けなくなった。それでも解放されたいと必死に足を進めようとしていると、不意に手首に熱い何かが巻きついた。えっ、と声を上げる余裕も無く、そのまま強い力で引っ張られ、転げるように人の波からホームへと脱出する。

「おり、れ、たぁ…」

そう呟くと同時に発車サイレンが鳴り、そのまま扉が閉まって電車は行ってしまった。横目で走ってゆく電車を見ていると、ふと手首の感触を思い出し、パッと視線を移した。が、移そうとしたところで、頭上から盛大に声が降って来た。

「アホかアンタ!!!」
「ひっ…!」

あまりの怒声にぎゅっと目を瞑り縮みあがってしまう。手首に巻きついているそれがさらに力強く締め付けてくる。おそるおそる目を開いて顔をあげると、若い男の人がこちらをこれでもかと睨んでいる。

「イヤならイヤって言えや!何、されるがままになってんねん!」
「す、すみません…」
「ガマン大会か!オッサン喜ばせて満足か!ああいう奴はほっといとったらつけ上がるだけやぞ!」
「…っ」

(そんなこと、分かっている)

叫ぶとか、やめろと言うとか、そうすべきであったことくらい自分で分かっていた。でも、出来なかった。本当に、出来ない自分がいたのだ。理由なんて混乱した頭では分からない、ただとにかく自分は何も出来ず固まることしかできなかったのだ。

(悔しい、恥ずかしい、情けない)
(気持ち悪かった、不快だった、こわかった)

ぼろぼろと、今になって涙がとめどなく流れ出す。鳥肌でなく、今度こそ全身が恐怖で震え始めた。膝ががくがくして、力が入らない。泣くのか、結局私は、泣くんだ。それがまた悔しくて、嫌で、でも止まらない。

「う…っ…」
「な!い、今泣くんかい…」

泣きだした私に驚いたのか、その人がたじろいたのが分かった。怒鳴られてびっくりはしたけれど、あの声で緊張の糸が切れたのかもしれない。掴まれている手首は少し汗ばむくらい熱いけど、嫌じゃなかった。

(この人は、気づいてくれたんだ…)
(私を引っ張って、逃がしてくれたんだ…)
(それで、怒鳴って、こんなに心配してくれるんだ…)

見ず知らずの、多分制服だから高校生、つまり自分よりも年下の男の子なのに、こんなにも頼りがいがって、こんなにも優しいんだと、そう思うとさらに涙は止まらない。
一方男の子はというと、先ほどまでの威勢は完全に失われ、「あかん、泣かせてしもた…」「す、すまん、堪忍や…」と動揺した声が降ってくる。手首を掴んでいた彼の手が音も無くするりと離れていき、ああ、離れちゃうんだ…と思ったのもつかの間、今度は背中をぽんぽんと、小さい子をあやすように優しく叩く。

「怒鳴って悪かった…つい、カーッてなってしもて…アンタは何も悪ぅナイもんなぁ。俺ももっと近くにおったら、早く助けられたんやけど、微妙に遠くて、な」

しおらしくなってしまった、けれど優しい声に私は首を横に振ることしかできない。ああもう、折角朝お化粧したのに、大学着く前に全部とれちゃうなぁ。

「せめて降りるのくらい助けたろ思て、手ぇ引っ張ったんやけど、痛かったよな…」

悪いな、と謝られて、ますます私は首を強く振る。言いたいことがいっぱいあるのに、上手く声が出せなくてただただ泣いてばかりいると、「とりあえず、ちょお座ろか」とホームのベンチに誘導され、そのまま二人並んで腰かけた。それからしばらく沈黙が続いて、目の前の一本二本と電車が過ぎてから、やっと私は涙を止めることができた。鼻をすすりながらどうにか笑ってお礼を言う。

「泣いて、ごめんなさい…助けてくれて、ありがとう」
「や、ええて」

一瞬きょとんとした表情を浮かべて、すぐさま顔の前でぶんぶんと片手を振る彼は、少し照れたように視線を私からそらした。高校生らしいその表情がかわいい、だなんて、男の子にはちょっと失礼かもしれないなと胸の内で思いながら、今時の子にこんないい子がいるんだなぁと改めて感動してしまった。

(にしても…たぶん今すっごいひどい顔になってるだろうなぁ…)

隣の彼が、そこそこ整った顔立ちをしていることに気づいて、そんなことを思ってみたり。まぁ、だからと言って今更顔を隠すだなんて可愛らしい仕草が出来るような性格でもないので、ティッシュで目もとやらを拭う。あ、やっぱりマスカラ落ちてる。

「学校、遅刻しちゃうよね。本当にごめんなさい」
「朝練やし、まぁ大丈夫やろ。俺んとこの部長は結構話の分かる奴やしな」

寧ろ困っとるオンナノコ放って部活行きよったら逆にどやされそうやわ、と無邪気に笑う表情は、少年ぽくてやっぱりかわいいと思ってしまう。オンナノコだなんて、嬉しいことを言ってくれる。

「えっと、お名前聞いてもいいかな?」
「俺か?俺は忍足謙也。四天宝寺高校3年。あんたは?」
「私は、A大の1年。オシタリくん…本当にありがとうね。あとみっともない顔見せてごめんね」

謝るのも変かもしれないが、一応言っておこうと思った。ほとんどは自分のためだけれど。
するとオシタリくんは真剣な面持ちで「みっともなくなんかないで」と言う。思わず胸が高鳴った。あまりにも真顔で、ストレートにそう言われると、なんだか恥ずかしくなって顔が熱くなった。今の、すごい殺し文句に聞こえちゃうのは、オシタリくんがカッコ良く見えるのは、私が単純だからだろうか…。何と返せばいいのか分からなくて、とりあえず視線をそらす。心臓がどきどきする。

「あ、うん…えと、…あ、ありがと、う…?」

ちらりと視線だけあげて、無難に(?)そう返すと、真顔だったオシタリくんはみるみるうちに真っ赤になった。わ、耳とか首まで、赤い…。そして自分が恥ずかしいことを口走ったと思ったのか、ハッとした彼は慌てて両手をぶんぶんと振って弁明をし始める。

「今のは!その…っ、泣くっちゅうのは悪いことやないっちゅーか!男が泣いてもキショイだけやけど、女はそないなことないっちゅーか!あの、アレやアレ!涙は女の武器やから泣いてもおかしくないっちゅーことや!」

せやから泣き顔も問題あらへん!、と少し大きな声で言われ、私はおかしくなってちょっと笑ってしまった。なんだろう、あんなにかっこ良くて、怒鳴られたときはいっそ男前だと思えるくらいだったのに、こんなにもかわいいだなんて。ずるいなぁと思う。女の私より、よっぽど、だ。

「いいなぁ、高校生って。ちょっと羨ましい」
「…そーデスカ」

ぶすっとむくれてそっぽを向く顔もまた。これは、高校生だからというよりも、オシタリくんだからなのかもしれない。うーん、ハマっちゃいそうだ、なんて思いつつも私はそろそろ時間的にもまずいよな、と考える。

「そろそろ行かないとまずいよね。ホント、ありがとう」
「それはもう十分聞いた」

まだふてくされているのか、むっとした表情のままオシタリくんが立ち上がったので、私もベンチから離れる。
オシタリくんは次にホームに入ってくる快速に乗るらしく、私はそれより一本後の比較的座れる各駅に乗ることにした。どうせ遅刻なら、もういっそゆっくり座って行こう。すぐに快速が入って来て、私はもう一度だけお礼を言おうと思って彼を呼んだ。けれど、言う前に片手で制止されてしまう。

「ありがとうはもうええから。それより、あの電車乗るんなら車両の端っこ行った方がええで。つぶされやすいけど、壁に背ぇ預けると比較的安全やしな」
「うん、明日からはそうする」

電車が止まって、ドアが開いた。何人かの乗客が降りてきて、ああ、なんだかサミシイなぁと思う。また会うのは、難しいかな。でも、仕方ないと自分に言い聞かせ、「最悪車両帰るとか時間ずらすとかするよ」と返すと、オシタリくんは私を見たまま閉口した。何か変なこと言ったかな、と不思議に思ったけど、発車サイレンが鳴ったので慌てて手を振ってみせる。何も言わないまま電車に乗って、くるりとこちらを向いた彼はサイレンに消されない程の声で最後の言葉を残す。

「俺がガードしたるから、また明日な!」

語尾を強めにそう言われて、私はえっ!と反応してみたが、その瞬間ドアが閉まってしまった。
待って、今、彼は…なんて言った?

(俺が、ガードする?)
(また、明日?)

それは、もしかして。
壁を一枚隔てて、私は何か言いたいのにどうしようも無くて。ただじっと目を見開いて彼を見つめていると、オシタリくんは片手をあげて笑った。苦笑気味に、照れくさそうに、高校生らしい、でも男の子っぽい、そんな笑顔。そのまま電車は走りだしてしまい、私は見えなくなるまで彼をずっと見ていた。そして最後の最後だけは、多分笑えたと思う。

「…見えなく、なっちゃった」

ホームに残された私は、独り静かにそう零した。けれど、寂しくも悲しくも無い。それどころか、胸がどきどきわくわくしている。
『また明日』と、そう彼は確かに言った。だから、明日を待てば、また会える。彼がどこの駅から乗るのか知らないけれど、私は明日あの電車に乗ったら迷わず車両の端に行けばいいんだ。待っていてくれるのかもしれないし、待てばいいのかもしれない。きっとどちらにせよ、私は嬉しいと感じるはず。

「明日、2限からだけど早く行こうっと」

明日こそは、オシャレに手を抜けない。


キュートキュートヒーローボーイ!(年下)
君を守る浪速の正義の味方は、俺やっちゅー話や。