もともとイベント事に疎い、というか興味の薄い人間であることは重々自覚していた。
重要な年間行事といえば、せいぜいお正月とお盆くらいしかすぐには思いつかない。あとは、祝日かどうかだ(ようは学校が休みになるか否か重要なのだ)
自分の誕生日ですら、うっかりしていれば忘れてしまうし、クリスマスも確か家でDVDを観て終わった(ケーキすら食べなかった気がする)
バレンタインなんて、それこそ年間行事に入ってるわけがない。
1月になると、TVでは製菓メーカーのCMでバンバン宣伝をしているし、電車の吊り広告もそう。コンビニに行けば嫌でも目につくけれど、それらを見たところでとくに何も思うところはない。買いもしないから、あげもしない。友チョコを貰っては、ホワイトデーに義務的にお返しする程度だ。あげる相手もとくにいなかったし、友達に配ろうとも思わなかった(皆が配ってるんだから、チョコもらってチョコ返すんじゃ無意味にもほどがある)
チョコ自体は好きだけど、年中食べれるじゃないか。一応甘党ではあるので貰えるものは有り難く貰うけれど、チョコである必要性はない。
だから、バレンタインというものは私の中で非常に影の薄い存在であった。
寒い寒い2月の朝、がっちり巻いたマフラーに口元を埋めて、もこもこの手袋にふわふわの耳あて。完全防寒姿で教室に入った私は、その時初めて周囲の雰囲気がいつもと異なることに気づいた。皆、とくに女の子の空気がやけに明るい。男子もどことなく落ち着かない様子で、そわそわしている。おや?と不思議に思い、首をかしげていると、何人かの女の子たちが私を囲んだ。
「おはようちゃん!ハイこれチョコ!」
「あたしもー!ちゃんに!」
「私もあげていいかな?」
華やかな声色で差し出される手のひらサイズの小さな包み。それを見て、やっと今日が“バレンタイン”なんだということに気づいた。そうか、今日14日だ。
「ありがとー皆凝ってるね、美味しそ…でもごめん、私作ってきてないんだ」
「いいのいいの!貰ってほしいだけだし」
「気にしないでーそれより食べたら感想聞かせてね」
「あんまり美味しくなかったらゴメンねー」
私が作ってくるなど微塵も期待していない友人たちはケラケラと笑いながら私の小さな謝罪を吹き飛ばしてしまった。すごい、今日のオンナノコパワーは最強に違いない。そんなことに感心しながら、私は有り難くチョコを受取り、ホワイトデーにお返しをするからと再度お礼とお詫びを言って席についた。彼女たちは他のクラスの友達たちにも配るため、軽快な足取りで教室を出て行った。
席について机に鞄を置くと、隣から気の抜けた声で話かけられた。
「はよーさん」
「仁王、おはよー」
年中眠そうな仁王は相変わらず背中を丸めて肘をつきながら、なんともだらしない姿勢で顔だけ私に向けて話てくる。
「仁王早くない?朝練は?」
「一応あったことにはあったんじゃがのう、練習にならんきに、急きょ中止じゃ」
「中止…さすがだねぇ」
「フェンス全面囲われると、さすがに怖かよ。そんなことされていい顔するのは幸村とブン太くらいじゃ」
ふう、と短めにため息を零す仁王はいつも通りやる気のなさそうな様子に加えて、少し疲れ気味のようだ。そんな仁王のラケットバックからは、ピンクや白、赤といった可愛らしいラッピングが顔をのぞかせているし、恐らく彼らテニス部の部室にはダンボールいっぱいのチョコの山がたくさん存在するに違いない。私が苦笑気味にお疲れ、と言うと仁王はまた小さなため息をついて、「全くじゃー」と呟いた。
「それにしても、お前さんも、ずいぶんもてるのー」
「あぁ、コレ?まあでも、友チョコだからね。仁王みたいに本命貰ってるわけじゃないから」
先ほど友人たちから貰ったチョコが目についたのか、何気なく手にとって仁王はそれらを眺めている。これがブン太だったら横取りさせるに違いない、などと思い、そういえばあの男の姿が教室に無いことに気づいた。今日は奴のためにあるような日なのに。
「ブン太は?まさか無いとは思うけど、休みじゃないよね?」
「教室にバッグおいてすぐに『他のクラスまわってくるぜぃ!』ちゅーて飛び出してったぜよ」
「はは…ブン太らしい…」
予想通りすぎて、思わず空笑いになってしまった。もてるくせに、わざわざ貰って歩く辺りがあの食いしん坊らしい。本命だろうと義理だろうと、あの男には関係ないに違いない。くれるモンは(食べ物に限り)一切拒まず、くれないのなら奪うまで。可愛い顔して、がめつい奴だ。
「本命だって混じってるだろうけど、全部いっしょにされちゃ、その子たちも報われないよね」
「そうじゃのー。ま、今日ばっかりは仕方なか」
ハハ、と笑う仁王は面白半分のようで、まぁ所詮は他人事なのだろうけれど。でも、仁王だってブン太同様、いや、それ以上に本命が多いだろうに。ブン太は貰えばそれなりに感謝をし喜んで見せる。けれどこの隣の男は、大して喜びもせず、いつもと変わらず飄々としているんだろう。それこそ女の子たちは報われない。私はそんなファンの子たちが少し可哀そうだと思いつつも、仁王にそれを期待したところで無駄だとも思い、小さくため息をついた。
「で?」
「…は?」
「からは無いんかの?」
「何を」
まさかとは思いつつ、私は聞き返した。仁王はあきれたように肩を落として、「ここはボケるとこじゃなかよ、チャン」と言う。
「え、まさかとは思うけど、チョコのこと?」
「…何でそこで“まさか”と思うんじゃ。フツーに考えてみんしゃい」
「ちょ、仁王。私がチョコ用意すると思ってたの?」
真顔でそう言った私に、仁王は眉尻を下げて盛大にため息をついた。「お前さん、乙女失格じゃのー…こんな娘じゃ親御さんも可哀そうナリ」と言われ、さすがの私もむっとする。確かにイベント事に疎くて、親(とくに母親に)は「なんでこんな可愛げのない子になっちゃったのかしら」と嘆かれたけど。仁王に言われる筋合いは無い。
「私の性格なんて分かりきったことじゃん。大体、バレンタインとか興味ないし。それに、仁王にあげる義理もないし。仁王だって私から貰わなくったって溢れるほど貰えるんだから、十分でしょ」
ああなんて可愛くないんだ私、と思いつつも、結局は本心であり、言葉にしてみて改めて自分は間違ってないと確信した。この際、女として終わってるな、という心の内のぼやきには耳を塞ぐことにしよう。私のことを微塵も理解しちゃいない仁王を睨んでやろうと視線を横に流すと、仁王は肘をついてるままの状態で、掌に顔をうずめて項垂れている。何よ、そこまで呆れなくたっていいじゃない。お前は私の母親か!
「仁王、あんたスッゴイ失れ…」
「いや、もうよかよ。別に期待しとったわけじゃなか。言うてみただけじゃ」
空いている方の手を私に向けて、言葉を制止されてしまえば、私は仕方なしにも黙るしかない。仁王はゆっくりと顔を起こすと、体ごと私の方を向いた。と思ったが、視線だけは見事に逸らされている。いつも通り力の抜けた様子には変わりないが、珍しく、どことなく情けなさが漂う。それは、どう考えたって、コート上の詐欺師の顔ではない。いつもの眠そうな目が、それとは違って僅かに伏せられている。長いまつげが妙に際立って、僅かに苦笑をたたえた口元からふっと笑みがこぼれる。どうして笑われたのか分からない私は、またしてもむっとしたが、仁王の表情を見てしまっては、怒ることもできず、私は肩を落とす。
「もう、なんなの仁王。ブン太じゃあるまいし、チョコ欲しかったってわけじゃないでしょ?」
「んー…どうかのう。期待はしとらんかったが、欲しかったことには欲しかった、かの」
静かに目を閉じて、ふふ、と笑いながらそう言った仁王に、私は再び「…は?」と言ってしまった。目を丸くして驚いていると、仁王がゆっくりと上目づかいでこちらを見てきて、私は反応に困ってしまった。期待はしてなかったけど、欲しかったって。本当に、本気で言ってるんだろうか。今私は、ペテンにかかってやしないか?
「に、にお…いくら詐欺師だからって、バレンタインに女の子からかうのは、バチ当たりだと思う…」
「…はぁ〜…ほんにヒドイ言われようじゃのう…ま、それでことお前さんじゃ。ええよ、別に」
「だって、私がバレンタインとか興味あるなんて、仁王だって思ってもないでしょ…?」
「思っちょらんよ」
クリスマスのときですら、家でぐーたらしとった子じゃからの、と言われてしまい、私は何も言い返せなくなる。それと同時に、何だ仁王分かってるじゃないと思った。じゃあなんでチョコなんか欲しがるんだ、といってやろうとしたが、仁王が制服の上着のポケットから何かを取り出していることに気づき、それを眺めてしまった。仁王は何やら小さな箱のようなものを取り出すと、すっとそれを私に差し出した。
「…チョコ?」
「今年流行りの逆チョコなり」
仁王の手にあるそれは、コンビニやスーパーでよく見かける、一般的なチョコレートの箱だった。逆チョコ?って、もしかしてアレか、最近CMでやってた、あれのことか。私はまじまじとそのチョコを眺め、そしてちらりと仁王の顔を見た。目が合うと、仁王はふっと小さく笑って、ホレ、と私に受け取るように催促する。
「え、貰っていいの?」
「もちろんじゃ。のために今朝買うたんじゃからの」
「…あ、りがと」
そうまで言われて断る術もなく。私はおずおずと手を伸ばし、仁王からそれを受取った。なんてことない、いつも棚に陳列しているそれ…かと思いきや、よく見るとパッケージのロゴが反転されている。なるほど、逆だ、と感心していると、仁王が「なかなかのアイディだと思わん?」と言った。
「うん、やるね、製菓メーカーも。こういう面白いお菓子とか、好きなんだよね」
「そのおかげで、男もスムーズにチョコが買えるしの。売上も伸びるっちゅー話じゃ」
「新しい市場ってやつかぁ。この企画考えた人すごいなぁ…受験生応援のお菓子もすごいけど、これも、注目度高いよね」
そう言いながらも、疑問は消えない。何で仁王が逆チョコをくれるんだろう。義理?お隣のよしみで義理か。面白いからやってみた、とか?ありうる…詐欺師だもんな、実験台にされてるのかも…なんて失礼なことを考えていると、不意にチョコを持ってる手に仁王が自分のそれを重ねてきて、驚いた私はパッと顔をあげて仁王を見た。
「そろそろ、気づきんしゃい」
「…これ…」
「ブン太じゃあるまいし、俺は好きでも無い奴からのチョコを欲しがる男じゃなかよ」
「でも、さっき、期待してなかったって…言ったじゃない
「期待しても、のことじゃからの。密かにほしいとは思いつつも、半分以上諦めとったよ」
きゅっと、私の手を握る仁王のそれの力が強まり、不覚にもどきっとしてしまった。ああ、まずい。意識させられている、完全に。
「今朝コンビニに寄っての、レジの前にこんチョコが置いてあって、ふとお前さんの顔が浮かんだんじゃ。こういうことには、これっぽっちも興味示さんが、甘いもんは好いとったからの」
ああ、まずい。これは、まずい。心拍数があがっていくのが分かる。顔や耳に血が上り、仁王の顔が見れなくなって私は俯いた。ここまでされて、その意味に気付かないほど、私だって鈍くはない。まさか、仁王が?嘘だ…、と必死に否定しようとしているのに、心は完璧に揺さぶられてしまっている。
「俺からじゃ、嬉しくなかったかの?」
「そ、そうじゃない…けど…」
こんなの、ずるい。絶対詐欺だ。
「ほ、本気で言ってるの…からかってるんじゃ、無くて…?」
「信用、ないのぅ…ほんなら、ハッキリ言うた方がええんかの」
力のこもった仁王の手が、熱いと感じる。もしかして、これはペテンでもなんでもなく、本気なのだろうか。
「好いとうよ、。バレンタインじゃけぇ、有り難く俺からの逆チョコ、受け取りんしゃい」
そう言ってくれた仁王の手は、私の気のせいじゃなければ震えていたかもしれない。いや、私が震えていたのかも。仁王のくせに、詐欺師のくせに、耳を赤くして、照れくさそうな顔をしている。胸の奥がきゅっと締め付けられるような気がした。
「バレンタインすら年間行事に入ってない女だけど…本気?」
「そこもまたお前さんの魅力じゃ。それに、来年は作ってくれるじゃろ?ダメなら次も俺から送るぜよ。お前さん、貰ったらきちんと返す子じゃしの」
「クリスマスですらぐーたらしてる女だけど…いいの?」
「今年からはぐーたらなんてさせん、デートに連れ出すナリ」
「……」
全く、この男には敵わない。これはもう、完全にわたしの敗北だ。
「じゃ…遠慮なく、頂きます…あ、あと!こんな私だけど、よろしく、です」
「ん」
どきどきしながらも、チラっと仁王を見ながら私は少しだけ笑った。仁王は、本当に少しだけほっとしたような顔をしていた。変なの、どこが詐欺師よ、と思ったのは私だけの秘密だ。
「ホントごめんね、私、チョコ作ってこなくて」
「今年はホワイトデーに手作りの何かくれればそれでよかよ」
「わかった、来月作ってくるから…」
そう言って苦笑交じりにもう一度ごめんね、と言った瞬間、仁王の唇がひゅっと私の頬をかすめた。
「とりあえず今日はこれでチャラじゃ」
にやりと微笑んだ彼の顔は、とても魅力的な詐欺師の表情だった。
純愛詐欺師の逆チョコ作戦。
それでよか。そんなお前さんだからこそ、俺は恋をしたんじゃ。
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