日常においてその中心はテニスであり、それは俺の全てだった。学業や私生活などは所詮おまけに過ぎない。ひどく退屈な日常の中で、唯一何もかも注ぎ込んでやろうという気を起こさせるものは、テニスだけだった。

そう、少し前までは。

授業の合間の休み時間、教科書やノートを用意して、放課後の練習メニューを考えながら外を見ていると、不意にか細い声で声をかけられた。

「き、木手くん…あ、あの、公民のノートを…」
「あぁ、ハイ。御苦労さま」

相手が言い終わる前に俺はその言葉を遮る。必死に笑顔を繕おうとしているが、うまく微笑むこともできず、ひきつった表情。そして、瞳の奥に見える怯え。
仕方がない、大抵の女子の態度など、こんなものだ。テニス部事態、監督があの男であることもあって、あまり評判が良くない。さらにはメンバーがメンバーだ。皆一生懸命ではあるのだが、もともとの強面と雰囲気。大人しい女子に怖がれるのは当然のこと。

俺が差し出したノートをふるえる手で受け取って、そそくさとその女子は去っていった。これでいい。何も困ることはない。干渉されるくらいなら、怯えられた方が面倒がなくていい。そう思いながら、再び空を見上げていると、また声をかけられた。

「木手くん」

女性らしい柔らかい声が、少し頼りなさげにそう呼び、俺はゆっくりとそちらを向いた。ほんの僅かに開けていた窓から静かに風が吹いて、彼女の髪をふわりと揺らす。

「何ですか、さん」
「木手くんさ、先週出された宿題のプリント、全部やった?」
「古典のですか?ええ、全てやってありますよ」
「本当!?ちょっと訊いてもいいかな?」
「俺でよければ」

パッと表情を明るくした彼女に、俺は思わず苦笑してします。全く、おかしな人だ。こんな風に俺に自然に話しかけてくるのは彼女くらいだ。この俺に、当たり前のように話しかけてくる、奇妙な存在。けれど決してそれを”干渉”と思わないのは、俺がその存在だけを許容しているから。

「私昨日やってみたんだけどさ、ここの訳ってこれでいいのかな」

少し俺の方に体を寄せて、自分のプリントの該当箇所を指さす。俺は少しだけ動いて、彼女が指し示す場所を覗き込む。細い指に、小さな爪。きっと俺なんかが軽く力を入れたらいとも簡単に壊れてしまうだろう。指だけじゃない、手も肩も頭も、何もかもが細くて小さい。まぁ、女性など皆そのようなものだけれど。

「ああ、そこですね。確かにややこしい箇所でしたが…さんの訳で間違っていないと思いますよ」
「ホント?よかったー。こっちの文法って、これでいいんだよね?」
「ええ、あってますよ」

時折、彼女はこうして自身の分からないところなどを尋ねてくる。席替えで隣になったばかりの頃は、このくらいのことも自分で出来ないのか、と内心苛立たしく思ったものだ。けれど、幾度となく回数を重ねて、ふと気づいたことがある。彼女はきちんと自力で課題を解いてきているし、分からない答えをただ教えて欲しいのではない。間違えていても自力で解こうとするし、どうしても分からなければ解答ではなく解き方や考え方を尋ねてくる。些細なことではあるけれど、それに気づいてからは、俺は態度を改めるようになった。

「ありがとう、木手くん」

声をかけられるのも嫌ではなくなり、寧ろ心の奥底で密かに期待していることを否定できず。それどころか、ふわりとほほ笑む彼女を見て、可愛らしいと、確かにそう感じてた。
接すれば接するほど、彼女の様々な魅力に気づかされ、恐ろしい程呆気なく心を奪われてしまった。テニスを除いたら退屈極まりない日常に、色をさしてくれたのは他の誰でもない、隣の彼女だ。彼女だけは、特別だった。



早朝、朝錬があるためジャージ姿で家を出ようとした際、シューズを履いている背後に妹がやってきた。起きたばかりなのか、まだ目が完全には開いていない。

「にーにー、これあげる!」
「これは…」
「チョコ!今日バレンタインなんだよ?」
「…手作りじゃないの」

別に家族(それも年の離れた妹)から手作りのチョコが欲しいわけではないが、だからといってその辺で年中陳列している市販のチョコを渡されてもあまり嬉しくはない。そんな俺の言葉に妹は「手作りはホンメイにしかあげないもん」と言い切った。ハイハイありがとう、と寝ぐせのひどい小さな頭を軽く撫で、家を出た。
背後から聞こえた見送りの言葉を聞きながら、妹に本命などという存在がいるのか…と、妙に複雑な気分になりつつ、貰ったチョコをラケットバッグにしまった。

朝錬を終えて教室に向かう時点で俺は十分に不機嫌になっていた。バレンタインなど、鬱陶しいことこの上無い。平古場くんや甲斐くん、田仁志くんじゃあるまいし。浮かれた雰囲気が癇に障る。案の定教室では男子も女子も無駄にざわついていて、俺は眉間に皺を寄せて自分の席についた。

ホームルームが始まる前になって、さんが登校してきた。うきみそーちー、とほほ笑まれ、憂鬱になりかけていた俺は少しだけ気分を良くして返事をした。荷物を置く彼女に、友人であろう数人の女子が声をかけ、そのまま彼女はそちらへと行ってしまった。それを横目に見ていた俺の脳裏に、小さな疑問が浮かぶ。

彼女は、今日チョコを持ってきているのだろうか。
それはいったい、誰に贈るものなのか。

考えた途端、とてつもなく気分が悪くなった。俺ではない、他の男が彼女のチョコを手にする。本命?義理?どちらにせよ、気に食わないことこの上ない。腹の底にずっしりとした黒いわだかまりが渦巻く。

これは、嫉妬だ。酷く醜い、彼女を独り占めしたいという独占欲。

やり場のない怒りに、思わず強く奥歯を噛みしめた。それでも表面上は平静を保ちながら、自然な動作を振舞ってバッグから教科書やペンケースを取り出す。その時、ふと目についた今朝のチョコ。俺はそれを取り出すことはせず、ただ眺めた。そして、そのチョコが普段店先で見かけるものとどこか違うことに気づき、なんともいえぬ違和感を覚える。そして、しばし見つめること十数秒。

「なるほど…フン、なかなか斬新な戦略だ」

通常のロゴとは違って、反転されているそれは最近CMでよく見かけるものだった。この時期限定で販売されているそれは、『今年は男性から女性に』が謳い文句の製品で、賛否両論、人それぞれ意見は異なるものの話題を呼んでいることは確かだった。なぜ妹がこのチョコを買ったのかは明確には定かではないが、おおかた、“期間限定”という部分に惹かれたのだろうと予測できた。
そこへ、じきにホームルームが始まるのだろう、さんが戻ってきて席についた。その瞬間、俺の中で何かが閃いた。無意識の内に、口角を吊り上げ、俺はそのチョコを手にとった。

さん」
「ん?何、木手く…」

彼女が首を少し傾けながら振り向いた瞬間、俺は腕を伸ばしその細い彼女の肩を引き寄せた。いきなり生じた力の動きに、いとも簡単に彼女の体はぐらりと傾く。そして彼女が自身の身に何が起こったのかを理解する前に、俺は素早く彼女の小さな唇を奪った。

「!」

僅かに高い音が響いた、ほんの一瞬の出来事。触れたのは瞬きをするよりも短い時間であったのに、確かに彼女の唇は甘く、背筋がぞくりと泡立った。至近距離にある彼女の顔を覗き込めば、大きく見開かれた瞳と視線が交る。

「俺の気持ちですよ、
「き、木手く…い、今…!」

途切れ途切れに言葉を紡ぎ、みるみる赤くなっていく彼女に気を良くした俺は、ふっと笑みをこぼし彼女の肩に置いていた手を移動させ、そっとその頬に触れた。

簡単なことだ。欲しいのなら奪えばいい。
それに、俺は目的のためなら手段など選ばない。

俺は反対の手に持っていたチョコをすっと顔の前に引き寄せると、彼女の瞳に焼き付つけるように、ゆっくりとその箱に小さく口づける。今日ばかりは、くだらない戦略を考えだした製菓メーカーと、我が妹に感謝してやってもいい。全ては、欲しいものを手に入れるためだ。

「俺からのチョコです」
「え、あ…えっと…」
「遠慮はいりません、受け取りなさいよ」

俺ばかりが君に夢中だなんて、そんなのフェアじゃない。必ずや君を俺に夢中にさせてやる。
チョコレートのように、君の心を溶かすのは俺。逃しは、しない。

「好きですよ、

もちろん選択肢は、ひとつしか与えてやらない。


殺し屋ラブ・ハンター
色褪せた俺の日常に迷い込んだ君は、か弱い子羊か、それとも仔うさぎか。