帰れないのか、帰らないのか、自分でもよく分からない。
ただ、大きな力がこの場に私を引きとめているような気がした。
「うわ、雨かなりひどくなってきたよ」
「えー帰り困るねぇ」
廊下を歩いてた私は友人であるの声につられ、窓の外に視線を向ける。
昼間だというのに外は暗い。厚い雲に覆われて、雨は横殴り、校内の木々は風に揺すぶられざわざわと不吉な音をたてていた。
「台風かぁ…これ、傘さしても濡れそう」
「それどこか、傘壊れそうじゃない?」
二人してその光景を想像し、冗談では済まなさそうなこの状況に黙り込むしかなかった。
その後も雨と風はひどくなる一方で、ついに帰りのHRでは担任から「今日は全ての部で活動禁止、速やかに下校するように」との連絡が入った。喜びと不満の声が入り混じり、教室中が騒がしくなる。
私はもしやとケータイを出して新着メールを確認した。案の定、幸村から部員たちに対しメールが一斉送信されていて、今日の放課後はコートでの練習はもちろん、屋内でのトレーニングもやめて下校するようにとの連絡内容だった。
HRが終わって、がそばに寄ってきた。
「、さすがにテニス部も今日はやらないよね?」
「うん、練習無しだって」
「すぐ帰れる?」
彼女の問いに、私はうーんと考え込んでしまった。
「今朝、部室に忘れものしてきちゃって。それとってこないといけないからちょっと時間かかるかも」
「そっか…ごめん、あたし今日すぐに帰らなきゃいけなくて、先に帰るね」
「うん、了解!また明日ね」
「ん、また明日」
私は手を振って先に帰る彼女を見送り、それから荷物を持って部室に向かった。
忘れ物というのは、今朝部活で使ったタオルだ。使い終わったそれをうっかり置いてきてしまって、さすがにそのまま放置して帰るのはまずいかなと思うし、ここは取りに行かざるを得ない。
「うーん…遠回りだけど、出来るだけ濡れないところ通って行こうっと」
少しばかりめんどくさいなという気持ちもあって、ため息交じりに一人つぶやいた。
部室に行くには、昇降口から外を通って行くのが最も近い。けれど、台風の中それほど急いでもないのに外から回るのは嫌だったので、校内を地道に歩き、最後に部室までの数十メートルだけ外を直進するルートを選んだ。
結果は…まぁ、やはりというか、なんというか。
「ひゃぁあ!濡れる濡れる!!」
ほんのちょっとの距離でも想像以上に強い雨にやられてしまい、慌てて部室に駆け込んで扉を閉めた時には全身ぐっしょりと濡れてしまっていた。制服のままなのに、こんなに濡れてしまうなんて…と軽く凹み、水の滴る前髪をやはり水の滴る手で軽く払う。
「…?」
不意に名前を呼ばれ、私はぱっと顔をあげた。すると、そこには部長の幸村が制服姿のままベンチに腰かけて本を読んでいた。
「幸村、あれ?練習ないんだよね?」
そう言って首を傾げていると、幸村は読んでいた本をそっと横に置き、「メールの通り、今日は一斉下校になったからね」と言って、何やら自分のテニスバッグに手を入れてごそごそと何かを探し始めた。
私は、じゃあ何をしているんだろうと疑問に思いながらも、置き忘れていた目当てのタオルを見つけ、手提げのバッグの中にしまう。今こそタオルを使いたいところだが、いくら自分のものとは言え、汗を拭いてしばらく時間が経ってしまっているそれを使うのは抵抗があった。
「ほら、これを使って構わないよ」
声をかけられ、再び幸村の方に顔を向けると、その手にはキレイに畳まれたタオルがあった。
「使っていないタオルだから。そのままでは風邪をひいてしまうよ」
「あ、うん…ありがとう」
いいのかな、と一瞬躊躇ったが、前髪からポタポタ落ちる滴も気になるし、ここは素直に借りておこうと手の伸ばして受け取った。畳まれた状態で顔や髪を拭っていると、洗剤のほのかな香りがして、少しだけ気分が落ち着いた。
幸村は「ふふ、どういたしまして」と笑い、再び本を手にとって読み始める。
私は借りたタオルを広げて肩にかける。まだ少し滴っている水分も、少し時間をおけばどうにかなるだろう。
「は忘れ物を取りに来たのかい?」
「うん。今朝のタオル放置しちゃってたから…幸村は?」
台風で早く下校するために部活がないのに、どうしてこんなところで本を読んでいるのだろうか。疑問に思いながらも、自分も少し離れてベンチの端に座ってしまった。その様子をちらりと横目で見やって、そして再び彼は本に視線を落とす。その双眸が、どこか楽しげに僅かに伏せられていて、口元もひっそりと微笑んでいるような気がした。
「俺も、読みかけの本をここに忘れてしまって、取りに来たんだ。それに、早く帰れと言われても、この雨と風だろう?少し時間を置いたら雨脚が弱まらないかと思って、ちょっとだけ読書をして時間をつぶそうと思ってね」
「…そう」
どこもおかしな部分はないはずなのに、何故か釈然としないのは、幸村があまりに余裕そうに読書をしているせいか。
それとも、何だかよく分からない不思議な雰囲気を醸し出しているからだろうか。
この天候、その理由に、幸村の様子だけがひどく合っていないような気がした。
何か言われたわけでも、これ以上用があるわけでもないのに、座ってしまった私は、静かに読書をする幸村をこっそりと眺め、そして突然大きな音をたてた風に驚き、窓の外に視線を向けた。雨はまだ強く、風も音を聞く限りではかなり強い。おさまる気配はまだ無いけれど、幸村のように少し待ってみようかなと思った。
バケツをひっくり返したような、とは、こういう雨のことを言うのだろう。ザアザアと吹き付けるそれは、風の勢いも加わって、部室の屋根に強く打ちつけられている。
時折突風が吹いて、びゅうっという音と窓ガラスががたがたと揺れる音がする。私は、この風がたてる音があまり好きではない。前触れのないそれは、安全な屋内にいても心臓に悪いからだ。
「こわいのかい?」
ぽつりと、穏やかな声で幸村が話かけてくる。外を見ていた私は首を動かして横にいる幸村を見た。読んでいた本に今度はそっとしおりを挟んで、静かに横に置く。
「音がするたびに、はそっちを向くだろう?こわいのかなと思ってね」
「こわい…というか、ちょっと驚くかな…大丈夫かなぁって心配になる」
言い終えると同時にまたびゅうっと強風が吹いて、どこかでバケツのようなものが転がる音がした。あまり、心安らぐ音ではないのは確かだ。
「そうなんだ。…雷とかは平気なのかい?」
「雷は落ちたら驚くし、あまりガラガラピッシャン言ってると嫌だけど、雷そのものは別にこわくはないかな」
「みたいだね。前に練習中に雷が鳴っていた時よりも、今の方が不安そうな顔をしているよ」
くすくすと笑う幸村は別に私のことを馬鹿にしているわけではないのだろうけど、何となく恥ずかしくて私は少し不貞腐れる。その様子に気づいて、さらに小さな笑みを浮かべ、幸村が聞えるか聞えないかギリギリの大きさで「可愛いな」と吐息と共につぶやいた。それが聞こえてしまった私は、かぁっと顔が熱くなるのが分かる。そんな風に色っぽい声で呟かれてしまっては、言われた方はたまらない。
「もう、からかわないでよ…」
むくれた私が言うと、幸村はまた「ふふ」と笑って、ゆっくりと私の方に顔を向けてくる。穏やかな表情を浮かべ、僅かに伏せられた瞳が真っすぐとこちらに向けられる。
「からかってなんか、いないよ」
「だって、」
反論しようとしたけれど、彼の目が静かに閉じられたのを見て、私も言葉を噤んでしまった。何も言えずに見つめていると、ゆっくりと瞼が開かれて、同時に静かな声も発せられる。
「俺も、苦手なんだ」
「…え?」
「風の、音がね。何だか心がざわついて、ひどく落ち着かなくなってしまうんだ」
こんなに穏やかで落ち着いた口調で、落ち着かないのだと言われても、本当なのかどうか判断しづらい。けれど、この状況で嘘をつく意味もまた理解出来ないので、少なくとも幸村もこの風があまり好きでないのだろう、とだけ納得した。
「だから、」
囁くような、静かな声と共に、幸村の片手が差し出される。白くて、一見綺麗なその手は、実はラケットを持つととても強い力を発して、周りを圧倒してしまうことを、私はよく知っていた。
「手を、繋いでもらえないかな」
「て…?」
「そう、外が少し落ち着くまで、手を繋いでいて欲しいんだ」
言葉の意味が分からなくて、茫然とその手を見つめてしまう。綺麗で、でも私のそれより大きい手だ。細いけれど、テニスをするせいか、柔らかそうとは言えないような、手。
「……いいよ」
手を伸ばし、そっと繋いでみる。思ってた以上に、その体温は温かい。
幸村はふっと微笑んで、「ありがとう」と、包み込むように私の手を握った。
先ほどより強くなった鼓動のせいか、外の雨音や風が、あまり気にならなくなった。それよりも、自分の鼓動は幸村にばれてしまわないかという方が心配になってくる。
雨は一瞬弱まったかと思うと、また強く吹き付ける。
風も音をたてて吹き、窓を揺らす。次第に日が暮れていくはずなのに、もともと厚い雲で暗かったせいか、時間が進むのが遅くなっているのではないかと思う。
「早く、やむといいね」
外を見ながら私がそう言うと、幸村はふっと笑って、静かに窓の外を見つめながらつぶやいた。
「…そうだな」
遣らずの雨と、引きとめる手
本当は、俺の心をざわつかせるのは、台風ではないのだけれど。どうか、もう少しだけこのままで。
戻