は、とある扉の前で立ち止まった。
一度瞠目して、軽く深呼吸をする。何度も訪れた場所なのに、最近はこの扉がとても重く感じられた。それでも、意を決して静かに戸を叩いた。
「絳攸、僕だ」
吏部侍郎室の扉なのだから、本当ならもっと礼儀を重んじるべきなのかもしれない、と考える。が、今はもう暗くなった夜空に星が瞬き月が輝く時間だ。人気もほとんど無いから、まぁ…いいだろう。
「ああ、入っていいぞ」
聞き慣れた声が耳に届いて、はふっと笑った。ほんの少しだけ、安堵する。
出来るだけ音を立てないようにそっと扉を開けて室に入れば、本来ならば広い筈の室が足の踏み場を失うほど、書簡の山、山、…やま。
そして部屋の奥にある机上にもまた同じような山があり、その中央に埋もれるように座って、筆を滑らせている銀色の髪の、親友の姿。
「絳攸、」
「少し待ってくれ、もう少しでこの書簡を書き終える」
「それじゃ、お茶を淹れてるよ」
「あぁ」
一度も顔をあげずに会話を試みる絳攸に、は相変わらずだな、と苦笑を浮かべる。こんな時間まで、こんな山と向かい合ってるのだから、さすがというか、やはりというか。
主上がいらっしゃらないのだから、相当忙しいのだろう。もともと吏部の仕事は山のようにあるが、最近はとくに、王もいなくて、例の尚書も以前より更に仕事をしなくなったようだから、絳攸の負担は大きいに違いない。
主上の不在でかなり暇を持て余しているは、初めは自らが絳攸の仕事を手伝おうかと考えた。しかし、今この状況で絳攸の仕事に手を出すことは、彼にとって非常に不利になる。手を出してはいけない、極力口も、出してはいけない状況にまで、事はなってしまっているのだ。
「絳攸、お茶淹れたけど」
「ああ…よし、これで…とりあえず一段落、だな」
「お疲れ、はいお茶」
「ああ、ありがとう」
「いえいえ。僕も、頂こうかな。ええと、椅子…」
腰掛ける場所を探すが、どの長椅子も書簡の山に陣取られていて座る場所がない。仕方なくは月明かりの差し込む窓際に凭れ掛りお茶をすすった。絳攸の好きな少し熱めのお茶に、こっそりと持参した疲労回復の効果のある茶葉の香り。茶器から口を離すと、自然と小さなため息が零れた。
それに気づいた絳攸が、心配そうな表情を向けてくる。
「なんだ、ため息なんかついて。ちゃんと寝てるのか?」
「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ。顔色があまり良くないようだけど」
「俺はちゃんと寝てるし食事も採っている。今日だって軽く仮眠もとっ、…」
「仮眠だと?」
ハッとした絳攸は慌てて口を噤んだが、がその問題発言を聞き逃す筈も無かった。途端、すっと目を細め真っ直ぐと己を見据えるの視線に、耐え切れず絳攸はバツが悪そうに視線を逸らした。
「し、仕方ないだろ!仕事が、片付かん…」
「…はぁぁ……で?どれくらい、とったんだ?仮眠」
絳攸は嘘をついて誤魔化そうかと考えたが、どうせ自分の嘘などにはすぐに見抜かれてしまうだろう___今までも結局ばれてしまったのだ___と思い、正直に、小声で答えた。
「…半、刻…ほど」
「………」
絳攸の告白に、は言葉を失う。
多少、そんな気がしてはいた。まともな睡眠はとっていないだろう、食事も恐らく不規則で、本当に一日中仕事ばかりしているのだろう、と。けれど___
半刻だと?たったの?しかも、絳攸の様子や性格、現在彼が置かれている状況からして、恐らく連日、下手したらかなり前からそんな生活を送っていたに違いない。いや、その仮眠を“毎日”とっていたかさえ危うい。
「こーゆう…」
「………」
今度は絳攸が黙る番だ。明らかに怒りを含んでいるの声は、出会った頃から、一つの恐怖だった。普段優しく滅多に怒りを露にしない彼がこうなると、その威力は絶大。しかし、それでも絳攸にはこうするしかない。
睡眠を、生活を削って、とにかく必死に仕事をするしかなかった。それ以外に何をすればいいか分からなくて、逃げるように仕事をしていた。
沈黙が、重い。どちらも言葉を探すが、良いものが見つからなかった。
最終的に、その沈黙を破ったのはの長く、大きなため息。
けれどそれは、絳攸を責めるためのものではなかった。
「こーゆう、…仮眠をとる時は自由に僕の室使っていい。府庫の仮眠室だと、まぁ滅多に無いだろうけど、誰か来たりすると落ち着かないだろうからな」
「あ、あぁ…分かった」
意外な反応に呆気にとられた絳攸だったが、何だかんだで有難い話である。
確かに府庫の仮眠室は人気が少ないものの、すぐに誰かが入ってきそうで___そこの宿主がいれば別なのだが___あまり落ち着かず、気が休まらない。
一方の部屋は主上付きの医官として独立した状態で用意されているから部外者による勝手な入室の心配はないだろう。
本来ならば個人的な仮眠に使用されるべき場所ではないのだが、独立した部屋である以上室主本人の言葉であるならば問題は無い。
「そのかわり、毎日、必ず一刻以上、仮眠でもきちんと眠ること。それが守れないんだったら力づくで眠りにつかせるからな」
の言う力づくとは、“睡眠薬を飲ませてでも”という意味である。
実をいうと今まで何度かその“力づく”の方法で眠らされたことがあった絳攸は、比較的温厚な彼がそこまで手段を選ばないということがどれほど重大なことかを頭だけでなく身体で知っていた。
なので、すぐさま首を縦に振る。それだけは勘弁して欲しい。
「よし」
絳攸が素直に従ったので、はほっとした顔を浮かべる。絳攸が約束を破るような性格ではないことなど出会った頃から理解している。だから恐らくこれからはもう少しまともな睡眠をとってくれると思った。
かなり無理やりだが、が親友のためにしてやれることは、この程度のことしか残されていなかった。それが妙に情けないような、悔しいような気がして、言葉にはせず、胸の内で静かにゴメンな、と呟いた。
それからまた暫し沈黙が続いて、両者ともお茶を啜ってはただぼんやりと窓の外を眺めた。
「なぁ、絳攸」
不意に呼びかけられ、絳攸はとくに返事をせず、の方を向く。けれどは絳攸を見ずに、そのまま月を見上げたままだった。その表情は、微笑んでいるわけでもなく、落ち込んでいるわけでもなく、ただ呆然と、真っ直ぐに夜空を見上げているだけ。瞬き一つしないに、絳攸は時の流れが止まったような感覚を覚える。
「楸瑛、は…」
そこまで呟いて、は言葉を切る。彼自身、その後に何と続けるつもりだったのか、分からなかった。
『元気だろうか』、『帰ってくるだろうか』___いろいろ思い浮かぶものの、どれも口に出し難く思えて喉をつっかえる。
絳攸も、何となくだが、が何を言いたいのかが理解できて、肩を落とした。
お互い、思っていることは同じだった。ただ、どうしてか、言葉にするのが、非常に難しいものに思えたのだ。
「…主上は、藍州に着いたかな」
「…どうだろうな」
先程の続きは消えたまま、王の話になり、絳攸は曖昧な返答をしながら茶器を卓上に置き、再び筆を手に取った。小さく息を吐いて、再び書簡と向き合い始める。
それを横目でみていたは、僅かに目を伏せた。どこか憂いげなその表情に、下を向いていた絳攸は気づかなかった。月明かりによって、長い睫毛がの頬に影を落とす。
君は、どうするんだ こうゆう
かすかにの唇が動いたが、それは声にならず、絳攸の耳には届かなかった。彼はただ真剣に、仕事に取り組んでいるだけ。
も、それ以上は何も言わなかった。ただ静かに親友を見つめ、そして再び月を見上げる。
月夜の晩は、刻々と更けていった。
夜に紛れた僕らの不安
月光だけが、誰も触れることの出来ない其れを朧げに照らす
友情男主、絳攸編です。楸瑛の帰りを望みながら、言葉に出来ない。そして絳攸もまた、何を選ぶのか…。
男主は主上付きの医官という無理やりな設定です;
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