その日、楸瑛は非常に暇を持て余していた。思わず読んでいた書物から視線を外し、小さくため息を零す。
思っていたよりも、退屈だな
同じ室にいる他の者が知ったら激怒しそうな、会試受験者の一人とは思えない思考である。とは言うものの、実際彼の思いを知ったところで誰一人として彼に文句を言える者は恐らく居ない。
それは、彼が“藍”家直系の人間だから
再び藍家は藍姓官吏を、と皆こぞって噂をしているが、楸瑛にとっては非常に些細なこであり、どうでもいいことだった。
真実を語るに値しない者など放って置けばいい。
己の姓、そして十八という年齢のせいで注目を浴びることは始めから分かりきっていた。その上藍州州試を主席で及第しているのだから、寧ろ話題にならない方が可笑しいくらいだ。
藍家当主である兄の命令により国試を受験することになった楸瑛は、堂々としていた。周囲から浮いた存在で、自分よりも一回りも二回りも歳の多い者に白い目で見られたところで気に留めることではない。
……暇だ
もう暫くすれば試験開始の時刻になるので、一応は書物を読んでいたものの、やはりつまらない。もともと勉学にはこれといって燃えていないのだ。上位及第する自信はあるし、やるからにはきちんと受けるつもりではあるが、どちらかと言えば彼は剣の稽古の方が性に合っていた。
もう一度だけ、先程より長めのため息を零したとき、急に室内が僅かにざわついた。おや、と思った楸瑛は窓に向けていた視線を室の入り口の方へと向ける。そして入室してきた人物に、僅かに目を見開いた。
…彼、か。
周囲がざわつくのも当然、己と同じく今年の国試で注目を集めた一人。
楸瑛は漆黒に近い藍色の双眸をすっと細め、僅かに口元に笑みを浮かべた。
見据えた先に立つ、自分よりも二つ歳の若い少年。
銀色の髪が、少々物珍しく、毛並みの違う、といった感じだった。まだどこか幼い顔立ちであるが、凛とした態度と意思の強そうな少し吊り上った瞳がとても印象的だった。
入室した少年はほんの一瞬だが、怪訝そうな顔を浮かべる。けれど、くだらぬ噂や陰口を囁きあう愚かな年配者には目もくれず、少年はしっかりとした足取りで空席だった楸瑛の隣に腰を下ろした。そして脇目も振らずに持参した書物を開いて読み始めた。
楸瑛はちらりとその様子を見る。そして、ふと、ある疑問を思い浮かべた。
隣の少年が今年最も国試を騒がせた者の一人であることは間違いなかったが、果たして“どちら”の方なのだろう、と。ここは一つ___と楸瑛はふっと笑みを浮かべた。
「お互い、随分と注目を集めているようだけれど」
人当たりの良さそうな笑みの楸瑛が大きくも小さくもない声でそう話しかけると、少年はぴくりと眉を動かし、視線だけを向けてきた。
「貴方にはこんな些細なこと、痛くもかゆくもないだろう。藍、楸瑛殿」
興味も関心も無い、単調な声だった。冷静で、顔色一つ変えないその毅然とした態度が自分好みだと、楸瑛は笑みを深くする。そして同時に、藍家直系を目の前にする少年の態度から、その正体を見抜く。
なるほど、君があの…“紅家の”、ね
「君も全く動じてないようだね。李、絳攸殿」
「ふん」
どうでも言い、と言った様子で少年はぷい、と視線を手元に戻してしまう。その様子に、つれないな、と思った楸瑛だが、これは面白い、と隣の少年に興味を湧かせた。
「兄から色々と聞いているよ。君のことも、君の…養い親殿のこともね」
何気ない言葉であったが、最後の部分が少年の核心を突いたらしく、少年の眉間にしっかりと皺が刻まれた。そして再び、今度は訝しげな顔で、少年は楸瑛を見た。
「貴方が兄君たちから何を耳にしたかなど、興味は無い。だが、一つだけ言わせ貰う。馴れ合うつもりは、毛頭無い」
「それは養い親殿からの言いつけかな?それとも君の意思?」
「…答える義務も無い」
不機嫌そうに再び顔を背けられ、楸瑛はふふっと笑った。
面白いものを、見つけた。家柄や年齢に惑わさせる馬鹿な大人よりも、遥かに彼は自分を楽しませてくれるだろう。
十六歳で紅州州試を主席で及第。
そして、恐らくこの事実を知っているのは自分だけであろう、と楸瑛は思う。
紅家当主・紅黎深の、養い子…ねぇ
なるほど、“あの”兄たちが意味深な笑みを浮かべる筈だ。両家当主は互いをこれでもかと毛嫌いしているものの、あの三人の兄がどこか紅家当主に興味を抱いているのは確かだった。
そして、己もまた___
つまらないと思っていた国試だったが、どうやら少しくらいは楽しめそうだ、と楸瑛は胸の内で呟いた。
どうせなら、“もう一人”にも会ってみたい、などと考えながら、隣人に倣って、再び楸瑛も書物を読み始めた。
紅藍の出会い
まずは双花出会い編。主人公出ていませんが、次から出ます。最初は興味本位だった、楸瑛と、最初は本気で警戒心丸出しな、絳攸。そんな二人の出会い編でした。
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