李絳攸はぐっと拳を握り、奥歯を噛み締めた。
声には出さす、胸の内で『くそっ…!』と悪態を吐く。
見知らぬ場所をさ迷う己を、今は居るはずの無い“あの人”が扇の裏でこれでもかと言うほど、人の悪い笑みを浮かべているような気がした。




「…何故っ、厠と試験会場がこんなに遠い…っ!」

叫びそうになるのを必死に押さえ、震える声で低く唸る。
両手で力の限り頭を掻きむしりたい衝動に駆られるが、彼の矜持がそのような行動を許すはずも無く、理性で押さえ込む。だが、顔に出さないようにしているものの、絳攸の頭はどんどん焦り始めていた。
とにかく戻らねばと思い、必死に足を動かすものの、一向に辿り着けない。

大体、目印になるものが全くないとはどういう事だ…!

鋭い目つきで辺りを睨みつけるが、だからと言って状況が変わるわけでもなく。焦りが余計に思考を鈍らせ、不安さえも作り出してしまう。爪が掌に食い込む程強く握り、悔しそうに完全に止まってしまった足を恨めしそうに見つめていた時だった。

「絳攸!」
「!」

不意に己の名を叫ばれ、絳攸は勢いよく顔を上げる。すると、少し先の視界に人影が二つ。
その内の一人が小走りになって、絳攸に駆け寄ってきた。もう一人は優雅にその後に続く。

「やっぱり。こんなことだろうと思ったよ、絳攸」
「…

眉を下げ、ふうと息をつく知り合いに、絳攸はバツの悪そうな顔を浮かべた。内心、ほんの僅かだが、安堵しながら。

「見つかって良かったね」
「ああ、すまない、藍楸瑛殿」

くすくすと笑いながら近寄ってきた人物に、絳攸は思いきり不機嫌そうな顔をする。まさか、この男に見られるとは…!と思い、我慢出来ずにとうとう声を荒げてしまう。

!お前、何でこんな男と一緒に…っ!」
「おや、随分な言いようだね、こーゆう?」
「だまれ藍楸瑛っ!気安く名を呼ぶな!!」

先ほどまでの理性はどこへ行ったのやら、恥ずかしさや屈辱から絳攸は目を吊り上げ恐ろしい形相で喚くが、楸瑛はその反応さえも楽しむかのように涼しげな顔で笑うだけ。

「絳攸、そんな言い方は無いだろ?楸瑛殿は君を探してくれたんだぞ」
「なっ…!頼んでないっ!」
「まあまあ殿、確かに私は彼に頼まれたわけでもない。ただ、隣人が厠に行ってからなかなか帰ってこないから勝手に心配をして、偶然彼を訪ねてきた君に会って、一緒に着いてきただけだから。ああそれと、私のことは楸瑛と呼んでくれるかな?折角運命的に巡り会った友人だからね」

にこりと笑みを浮かべる楸瑛に、は苦笑交じりに微笑み返し、穏やかな口調で話す。

「ああ、僕のこともと呼んでくれ。遅くなったが、改めて、宜しく」
「こちらこそ。同年代の受験者が二人もいて、心強いよ」

互いに笑みを浮かべたまま、和やかな雰囲気を醸し出しながら握手を交わす二人に、取り残された絳攸は拳を震わせる。カッと目を見開き、怒鳴り散らそうとしたが、僅かにの方が早かった。

「絳攸、あまり一人で出歩くな。いくら僕だって出会って間もない君を探すのは…骨が折れる」
「ああ、それなら問題ないよ。次からは私が彼に付き添うようにするからね」
「いらん!大体何故俺が貴様に付き添われなければならんのだ!俺は別に迷ってなんか…!」

に探されるのは多少の羞恥を覚えるものの、まだ素直に感謝できる(といってもあまり口には出せないが)絳攸であった。
が、藍家の四男は別だ。
否、藍家がどうこう、というよりも、寧ろこの“藍楸瑛”という男が気に食わないのだ。涼しげな顔をして、余裕そうに食えない笑みを浮かべ、間違いなく自分を面白がっているこの男の存在そのものが。

「迷ってないって?絳攸、じゃあなんでこんな場所に居るんだ…」
「それは、だから厠に…」
「へぇ、本当かい?厠なら、私やが来た方向にあったけれどね」

呆れ顔と、愉快そうな笑顔。
やはり後者はどうしても気に食わん!と絳攸は楸瑛を睨みつける。

「まぁいい。とりあえず、試験会場に戻ろう。絳攸」
「そうだね、三州の州試で主席だった私たちがこのまま途中退室で終わりました、なんて、あまり良い洒落にもならない」
「……っ、先に行く!」

本当ならまだ腹の虫が治まらない絳攸であったが、楸瑛の言葉通り、このままではマズイ、と一人先に荒い足取りで歩き出してしまった。そんな彼の姿を見て、と楸瑛は一瞬互いの顔を見合わせる。そして…

「はぁ…絳攸、君って奴は…」
「くっ…、はははは!君、本当にっ、すごい、方向感覚だね、ふっ、くくくっ…」
「な、何だ!っ!なんだそのため息は!!そして藍楸瑛っ!貴様何を笑っているっ!!」
「全く…ホントに方向音痴なんだな」
「いや、これはもう一瞬の才能だよ」
「なっ!!!」

「「そっちじゃなくて、こっちだよ。こうゆう」」

歩き出した方向と全く正反対の道を指で示しながら言うと楸瑛に、今度こそ絳攸は真っ赤になった。

「うるさい!!少しそこの柱が気になっただけだっ!!!」

勿論その発言に、心底が呆れ、楸瑛が笑ったのは言うまでもない。

その後、一人試験会場の室が異なるが楸瑛に絳攸を任せて先に走り去っていき、残された2人はと言うと、慌てた楸瑛が無理やり絳攸の手を引き、室に入るギリギリまで、絳攸は怒鳴り散らしていたのであった。



迷子



とうとう3名がそろいました。適当な設定で申し訳ありません…とりあえず、こんな感じでだんだん親しくなっていたら楽しいな、という希望的観測でした。