藍州へ出立する日____
絳攸と会う少し前に、楸瑛はもう一人の親友と会った。



彼の姿が視界に入ったとき、私は心の何処かで再び、逃げようと思った。同時に、今ならまだ戻れるかもしれないという未練を思い浮かべ、すぐに頭を振った。
何度、何度己の過ちから逃げれば…私は気が済むのだろう。
いずれこうなることは分かっていたはずなのに。逃げても逃げても、決して避けられないと知っていたのに。

それでも、名残惜しいと思う自分が、とても愚かで、ほんの少しだけ誇らしく思った。
それほどのものを、あの国試を受けたときから今日まで、私は持っていたのだ、と。
結局は、手放さなければならなくなってしまったけれど・・・

「やぁ…

声が震えそうになって、必死に取り繕う。何度場数を踏んでも、それでも乗り越えがたい時というものはあるのだと思い知る。
俯いていたが、ゆっくりと顔をあげて私を見上げる。
色素の薄い双眸が、私の姿を捉えて、揺れた気がした。

「…楸瑛」

その表情に、心が、揺らぐ

「行くのか」
「うん」
「…そうか」

珍しく、言葉を失っているに、私は少しだけ微笑んだ。
彼との距離は、いつもより遠い。
普段から、私より背の低い彼は、目線を合わせにくいからと少し距離を置く癖があった。それがもどかしくて、いつも私が勝手に彼に詰め寄ると、彼は苦笑を浮かべながら、どこか嬉しそうな、恥ずかしそうな表情を垣間見せてくれた。そして、疲れるであろうに、しっかり私を見上げてくれていた。

「いずれ、こうなる運命だったんだよ、
「そう、かもしれない…な」

その距離も、今日は遠い。
私は、それを縮めることが出来ない。怖くて、こわくて、これ以上一歩も踏み出せずにいる。

「別に、絳攸と違って楸瑛は迷子にもならないだろうし、武官だから体力的にもなんら心配はないな」
「そうだね…絳攸のこと、彼が迷子になったら、君が助けてあげて」
「…ああ。…分かってる」

それから、私も彼も、しばらく黙り込んでしまった。
辺りで鳴く蝉の声が大きいのに何故か遠く感じられて、頭の中でいろいろな季節が巡って、いろんな思い出が駆け巡った。


「…ん?」
「君と絳攸と過ごした日々は、本当に楽しかった。そして王の傍で仕えた2年間も…私にとってかけがえのない思い出だ」
「…まるで、今生の別れ、って感じだな」

私は肯定も否定も、しなかった。ただ、彼に微笑を返すだけ。
長いようで短かった、輝かしい日々を失いたくなくて、私はずっと逃げてきて…こうなってしまった。
無言のまま、と視線が合って、逸らせなくなる。

うっすらと濡れた瞳に、胸が痛む。最後まで優しい表情の彼に、心から申し訳なくなった。
私たち3人の中で一番しっかりしていて、一番大人な彼が、こんな顔をするなんて、と思った。そうさせているのは、他の誰でもない、私自身だとというのに。
実は誰よりも彼は涙もろくて、誰よりも寂しがりやだったことを思い出して懐かしく思った。

「楸瑛、お前は…藍家だ」
「…そうだね」
「僕や絳攸とは違う、正真正銘藍家の人間だ」

彼の言うとおりだ。
私は、藍家の人間。どこまで行っても、何になっても、その名を負う存在なんだ。
この命ある限り、その血が私の中に流れている。

「だから、僕は、絳攸もきっと…どうにかしてやれるわけでもないし、決してお前を引き止めたりはしない」
「…ありがとう」

思い当たる言葉が、そんなものしかなかった。
ハッキリとそう言われ、揺らぎ始めていた決心が再び固まり始めた。
これ以上は、甘えられない。逃げ切れぬのなら、何処かで終止符を打たなければならないんだ。
他の者に許されるのだから、と駄々をこねる幼子のような思いは、もう許されない。

は涙を呑むように一度固く目を閉じ、再び開いてため息混じりに呟いた。
先ほどの様子よりも、凛とした、いつもの彼だ。

「多分、この先に絳攸もいると思うけど…僕は、ここまでだな」
「…ありがとう…すまな」
「謝るな楸瑛。それは、お前に相応しい言葉じゃないからな」
「…そうだね」

最後まで、彼は厳しくて、誰よりも優しかった。私とは違って、いつも正しい彼が、羨ましく思える。
風に吹かれ、腰に下げていた剣が僅かに音を立てた。
それは、最後の時を知らせる鐘___

「もう行くよ」
「ああ」

それだけ伝えて、返されて、私は彼の脇を通り抜ける。
振り向くことはせず、前だけを見て。


遠ざかる彼が振り向いて、私の背中に「寂しい」と呟いたように感じられたのは、恐らく己の浅ましい願いに過ぎない。




かなを、どうかして







はい、楸瑛とのお別れのシーンでした。なんかもうよく分からないのですが、一応友情ということで。何がしたかったのか自分でも分かりません。