君はまるで春風のように笑う
穏やかで温かく、時に美しく、時に可憐に。



「くっ…!」

吏部侍郎こと李絳攸はぐっと奥歯をかみ締め、さらに拳に力を入れる。
僅かに汗をかく。思わず眉間に皺を寄せて、前方を睨んだが、そこには何か不快なものがあるわけでもなく、またそのような人物がいるわけでもなく。

ただ真っ直ぐに伸びる回廊を、彼は睨んでいた。

「くそっ…どうして吏部に辿りつけんのだ…!何度も何度も何度も行っている筈なのに!!」

誰もいない回廊で絳攸は一人低く唸ってみるが、それで道が開けるわけも、まして吏部への扉現れるわけでもなかった。
しばらく立ちすくんだ後、再びどかどかと歩き始める。迷っているのに(本人はそれを頑なに認めようとしないが…)しっかりとした足取りで前進するが、その道が正しいという根拠はどこにも無い。要するに、勘である。朝廷一の才人と称され、自称鉄壁の理性で通している絳攸であったが、道を進むことに関してだけは、いかなる論理も展開することは出来なかった。

「大体、何故こんなに分かりにくい造りをしているんだ!同じような曲がり角ばかりで分かりにくいにも程がある!」

ぶつぶつと独り言(文句)をたれながら進んでいくと、ふと、見慣れた人物が絳攸の視界に入った。その姿に気づいた絳攸は思わず動かしていた足を止める。

「…

ぽつりとその人物の名を口にするが、それは相手に届くことなく、空気に溶け込んでしまう。
回廊から、庭の木々や花々を眺めるその姿。どこかうっとりとした、穏やかな表情に、絳攸は目を奪われた。


___綺麗だ


ただ本当に、思いついたように、そう思った。同時に、胸の奥がぎゅっと狭まって、苦しくなる。
ふわりと、柔らかな風が絳攸を包み、まるでその風に誘われるかのように、絳攸はその人物へと歩み寄った。

「…
「あ、絳攸」

呼びかけられて、振り返ったは柔らかに微笑む。その微笑にまた絳攸の鼓動が大きく跳ねた。
少々躊躇いながらも、絳攸はさらに数歩歩み寄り、の隣に立った。そして、たった今彼女が眺めていたものに視線を向ける。

「花を、見ていたのか」
「うん。桜が、いくつか咲いていたから」

ふふ、と笑いながらそう答えて、再びは視線を淡い桃色の花に向ける。焦茶色の枝に、まだ数えるほどしかないけれど、小さな花がいくつか開いていた。

「相変わらず、花が好きだな」
「うん、好きだよ。でも桜は咲き始めたけれど、梅はそろそろ終わりのようだね」

残念だけど、と苦笑する彼女を見て、そういえば以前梅の花が好きだと言っていたな、と絳攸は記憶を呼び起こした。梅の蕾が膨らみ始めた頃、彼女が今日のようにその木を眺め、笑みを浮かべて「早く咲かないかな」と言っていたのを思い出す。

「確か、梅が一番好きだったな」
「うーん…そうだねぇ、桜よりは梅のほうが好きかな?」

僅かに苦笑を交え、曖昧な答えを返してくるに絳攸は僅かに首を傾げる。
もともと彼女が花を好むのは随分と前から知っていたし、春夏秋冬、季節折々の花を愛でる姿は幾度となく見て来た。そして、彼女が花を好むと知ったとき、確かに「一番好きなのは梅」と言っていたのも覚えている。
その後で偶然にも梅の花言葉を知る機会に巡り会い、なるほど、確かに彼女らしいと絳攸は思ったりもしていたのだが…どうやらあの頃のまま、というわけではなさそうだな、と少しだけ肩を落とした。

「なんだ、以前は“梅が一番”と言っていたのに、その様子じゃ違うようだな」
「確かに…梅が一番好きだったんだけど、花も香りも。だけど、それ以上に好きな花を見つけたんだ」

白くほっそりとして手で口元を隠しながらくすくすと笑うに、ますます意味が分からなくなった絳攸は少しだけむっとした表情を見せる。それがさらに彼女の笑いを誘ってしまう。

「そんなに絳攸が知りたがってくれるなんて」
「…教える気がないのなら別に答えなくてもいいぞ」
「どうしようかなぁ…教えてしまうのも、勿体無いような気もするけれど…」
「なんだそれは…」

呆れた声でそういっても、はころころと笑っているだけで一向に口を割らない。痺れを切らした絳攸は、もういい、とそっぽを向いてしまった。

「俺には関係のないことだからな」

自らそう言って置きながら、少しだけ後悔をする。何とも言えない気分になって、さっさとこの場から立ち去ろうと回れ右をして、軽く「じゃあな」と挨拶をして歩みだした。

数歩歩いてから離れたとき、不意に彼女が言葉を紡いだ。
先ほどよりも、優しく、どこか甘美な声色で。


「今は梅よりも、李が好き。一番は、李なんだ」


一瞬、空耳なのでは無いかと思った絳攸はぴたりと動きを止めた。少々働きが遅くなったが、その言葉を理解して、慌てて勢い良く振り返る。
驚いて大きく目を見開いている絳攸に、は恥ずかしそうにしながらもにっこりと微笑み、小首をかしげて、細い人差し指をそっと口元に添える。

「絳攸にだけ、君だから教えたんだよ?だから、秘密にして」
「…っ!」

カッと頭に血が上り、顔を真っ赤にした絳攸は、言葉を失う。
硬直してしまった絳攸には小さな笑みを零して、さっと衣を翻し、さっさとその場から逃げ去ってしまった。

残された絳攸は、彼女の残像を見つめるかのように、ただただ呆然とその景色を眺める。
どくりどくりと脈を打つ音が耳元で聞こえる。

「く、そ…ッ!」

不意打ちだ、と苦々しく呟き、片手で胸元の衣をぎゅっと握り締める。
瞳を細めた瞬間、梅とは異なる白い花弁が舞った気がした。



春風をする
君の微笑みに、
が綻ぶ。




はい、春モノ絳攸夢でした。梅は私が好きです。
何か、絳攸ダメダメな感じですね…。