自分や珠翠さん以外の女性だったら、ほとんどの人がこの笑顔に翻弄されるのだろう…そう思ったは心底嫌そうな顔をして見上げた笑顔を睨みつける。
自分は騙されない、とでも言うかのように。
「やぁ殿、今日もとても可愛らしいね」
「……貴方は、どうして行くとこ行くとこ私の前に現われるんですか。藍将軍」
「それは私たちが運命的に結ばれているからじゃないかな?」
何を言ってるんですか、と反論しようと口を開きかけたとき、うっかり片手を掬われ、ごく当たり前のような流れで手の甲に口付けられる。
「ひいっ!や、やめてください!」
短く音を立てたそれに、は全身の鳥肌を立てて拒絶し、引っ込めた手を必死に官服で拭った。
普通の女性なら顔を赤らめて喜ぶところなのだが、恥ずかしがるどころか微塵も照れず寧ろ顔色を青くするに、楸瑛は苦笑をもらす。なかなか、手強い。けれど、その反応が他とは異なって、こんなにも自分を愉しませる。
「ら、藍将軍、こういうのは女性相手にやってください!それと、可愛いとか、そのような余計なことを言わないでくださいと何度申し上げたらお分かりいただけるんですか!」
「余計ではないよ。私はありのままの感想を述べているだけだ。君は、可憐に咲く花のようだ」
言うなと釘を刺したばかりなのに、再びそう言われ、はこめかみをぴくぴくと引きつらせた。可愛いなんて、別に言われたくないし、言われてしまうと本当に困るのだ。何故なら今の彼女は女性ではなく、一官吏、つまり男性として振舞っているのだから。こんな些細な戯れごとで、全てを無駄にするなんて真っ平御免だった。
「困るんです!ば、バレたら…」
「安心して。私は君の秘密をバラそうなんて思っていないよ。ただ…性別など関係なくても、君は本当に可愛い」
「だから!ああもう!あっち行ってください!邪魔しないで!」
にこにこと邪気の無い笑顔で(には寧ろ邪気たっぷりに見えるのだが)頬を掠めるかのように髪と耳に触れられ、は必死に身を縮めて伸ばされた手から逃げようと暴れる。
「わ、私は吏部に戻らなきゃいけな、っ!?」
「あ」
言い終わらないうちに、ぐいっと強い力で肩を引かれ、の身体がぐらりと後ろに傾く。そのまま後方へ倒れるかと思いきや、ぼすっと後頭部に何かが当たり、それは免れた。
「え、な、何…」
「……残念」
と慌てて振り向くと同時に、楸瑛はため息交じりにそう呟いた。どうやら、時間切れのようだ。
「常春…お前、いい加減にしろよ…にちょっかい出すなと何度言わせる気だ!」
「絳兄う…り、李侍郎…」
倒れかけたを支えているのは、青筋を浮かべた義兄兼上司の絳攸だった。思わぬ人物の登場には目を丸くしたが、自分が絳攸にもたれかかっているのに気づき、慌てて離れようと身を捩る。いくら兄だからと言って、上司にもたれかかっている部下がいるものか、と。
「すみません李侍郎!ありがとう、ございます…」
「いや、無事か、。この常春男に何もされていないか?」
「あ、はい大丈夫…です」
「やれやれ、その言い方ではまるで私が悪いムシのようじゃないか」
全く悪びれる様子もなく、笑いを含んだまま肩を落とす楸瑛に、絳攸は怒りを露にして怒鳴りつけた。
「十分悪いムシだろうが!後宮の女や妓女ならともかく、にまで手を出すとは!その年中無休の常春頭をどうにかしたらどうだっ!?」
「別に手を出したわけではないよ。ただ、いつも通りに挨拶をしただけだよ。ね、殿」
「え、いや…!」
「嘘をつけ嘘を!ええい、!この男に近寄るな!いつ何時とって食われてもおかしくないからな!」
素早く義妹を自分の背後に隠し、絳攸は目の前に立つ腐れ縁の男を睨みつける。はで、しっかり兄の後ろに身を潜め、同じく悪いムシを睨みつけた。
「とって食おうだなんて、思ってないよ。少なくともこんな真昼間の外朝では、ね」
「……、夜遅くなるときは絶対に一人になるなよ。極力俺と帰るようにしろ。それから公休日も、日が暮れたら出歩くな…」
「は、はい…」
これでもかという程真剣な様子の義兄妹の会話に、楸瑛は笑いがこみ上げてくるのを必死に抑えるため、片手で口元を覆う。全く、この兄妹は本当に血が繋がらないのだろうか、と疑問になるほど、仲がいい。
「…何だか、妬けるね」
「はぁ!?何を言ってる…春に侵食されてとうとう頭も腐ったか」
「もともと腐ってますけどね…」
いかにも蔑むような目で見られ、楸瑛は苦笑するしかない。
目の前の悪いムシがとても楽しそうな表情を見せるので、少しだけ気を緩めそうになる絳攸とだったが、いや騙されては駄目だと、慌てて気を引き締める。油断は禁物だ。
「私も、殿のような可愛らしい妹君が欲しいな」
「ちょ、藍将軍声が大きいです!誰に聞かれたら…!」
「貴様にはやらんぞ!楸瑛、お前には藍龍蓮で十分だろうが」
「うっ…嫌なこと言うね、絳攸……まぁでも、妹よりも、私の姫となって貰う方がいいかな」
「絶対嫌です!」
「絶対駄目だ!」
こんな他愛ない、外朝での一場面。
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