『いいか、これだけはハッキリと言っておく』
『う、うん…?』
『あの男にだけは近づくな。何があっても、どんな理由があろうとも、一人であのと常春に近づいては駄目だ』
『……は、ぁ…』
絳兄上が私を心配してそう言ってくれたのは、少し嬉しかった。
仕事中に『官吏、ちょっと来い』などと、いかにも仕事の用件がありますな雰囲気に人のことを呼び出しておいて、言いたいことはそれか、とため息が出そうにもなった。
が、それでも、私はしっかりと首を縦に振った。昔から、絳兄上の言いつけは絶対に守っていたから。
たとえ血が繋がらなくとも、大好きな兄の言いつけだったから____
「…やっちゃった…」
肺にある空気を全て吐き出すほど、は盛大なため息をついた。情けないな自分、とか、否でもこれは不可抗力なんじゃないか、とか、怒られるのは嫌だなぁ、とか。とにかく思うことはいろいろあって、全てが混ざり合って何とも複雑な気分だ。
とりあえず、これだけは確かだけど、とは半眼になって嫌々前を見据えた。視線の先にいる、相も変わらずニコニコと食えない笑みを浮かべる義兄の親友(なんて言ったら絶対に「腐れ縁だ!」って怒られるけど)を見て、また大きなため息を一つ。
「やぁ殿」
こんなに最短時間で兄の言いつけを破ったのは、何時ぶりだろうか…。
忠告されてからまだ一刻も経っていないというのに、即効で見事に破ったは半ば諦めかけていた。
最初は回れ右をして逃げようかと考えたのだが、これまでに上手く逃げ切れた試しがあっただろうか、と考え、恐らく無駄だろうと思い至った。
結局、義兄のお説教覚悟で、は楸瑛から逃げることを止めた。
「さ、どうぞ」
「…有難うございます」
宿主が留守中の府庫で、少々強引に卓まで誘導され椅子に腰掛けさせられたものの、手際よくお茶を出され、思わず受け取ってしまう。その反応がお気に召したのか、楸瑛は一層笑みを深くした。
「先ほど饅頭を頂いてね、よかったら殿も召し上がってくれ」
そう言って色鮮やかな皿に盛られた、白くふっくらとした饅頭を眺めながら瞬きをすること、数回。
「……くれるんですか?でも藍将軍が頂いたんじゃ…」
「私のもらい物だから、私の好きにするよ。それとも殿は甘いものは嫌いだったかな?」
「いえ、好き…ですけど……」
「それはよかった。さ、美味しいから食べてごらん」
何だかよく分からないが、くれるというなら悪い気はしない。それどころか実は小腹も空いていたので、ふっくらとした饅頭は嬉しいお裾分けだった。
「…いただきます」
遠慮がちに手を伸ばし、一番手前の饅頭を手に取る。両手で持って、かぷりと口にすると、柔らかな感触と餡子の甘さが口いっぱいに広がった。
「ん…美味しいです、このお饅頭」
「そう、よかった」
ちらっと目線をあげてそう言うと、正面に腰掛けている楸瑛はふふっと笑みを零し、頬杖をついてこちらを見つめていた。食べているところを、真正面から除かれるのは、少々居心地が悪いけれど、その微笑が、いつもより優しそうに見えて、も少しだけ笑みを返しまた饅頭を頬張った。
あっという間に1つ食べ終わり、淹れてもらったお茶を飲んでいると、「もう一ついかがかな」と勧められた。2つもいいのだろうかと躊躇ったものの、「残ってしまっては困るからね」と言われてしまい、結局2個目も貰うことになった。さすがに3つめを勧められたときは断ってしまったが、2杯目のお茶を出された。
お腹も満たされての機嫌が良くなり始めたころ、すでに彼女の頭の中には義兄の忠告は微塵も存在していなかった。そしていつもはちょっかいばかり出してくる楸瑛も、今日は妙に優しかったので、も心を許したというか、ほんの少し気が緩んでいた。
それから暫く、他愛ない会話をして、楸瑛の穏やかな笑みにつられ、も少しずつ笑顔を見せ始めた頃…
「…随分と楽しそうだなぁ、楸瑛」
怒りを必死に抑えているのか、それとも怒りのあまり声が震えてしまっているのか。低く聞き慣れた声に、の顔色が一気に悪くなった。
「こう…李、侍郎…」
「やぁ絳攸、随分と遅かったね」
府庫の入り口付近で、腕組をしたまま顔を引きつらせている絳攸に、楸瑛はいつもと変わらない挨拶をする。一方はというと、先刻の言いつけを思い出し、どうしようどうしようと冷や汗をかき始めていた。
「……」
「はひっ!」
ドスの利いた声で不意に名前を呼ばれ、は飛び上がりそうになりがならもどうにか返事をした。どうやら兄は随分と怒りの様子らしく、無理に浮かべている微笑が寧ろ恐い。カツ、カツ、と音を立てて歩み寄ってくる絳攸に、半泣きの状態まで追い込まれたは顔を向けることも出来なかった。
「ついさっき俺が言ったことを、覚えているか?」
「えっと…あの、…覚えてはいたんですけど…うっかり忘れかけて、それで…今さっき思い出しました…」
「ほほう…つまりお前は分かっていながらこうやって楸瑛と茶を飲んでいたということか」
「………」
恐怖のあまり返答さえもままならぬに、楸瑛はただただ苦笑をもらすばかり。己が元凶であることは想像がついているはずなのに飄々とした態度で、まるで絳攸と紅尚書を見ているようだな、と胸のうちで思う。
そんな反省の色を微塵も見せない楸瑛に、絳攸は鬼のような形相を向ける。
「楸瑛…貴様、」
「おっと。言っておくけど、私は何もしていないよ。ただ殿にお茶と饅頭を振舞っただけだ」
両手を軽くあげて、食えない笑みを浮かべながらそう言い切った楸瑛に、絳攸の怒りはとうとう爆発した。
「黙れこンの常春がーーーっ!!!お前は今すぐその腐った頭を首ごと取り替えて来い!!」
「面白いことを言うね、絳攸」
「絳兄上、さすがにそれは死ねと言ってるのと同じでは…」
「黙れっ!!お前も何度言ったら分かるんだ!?あれほどこの男には近づくなと言っただろうが!!!それを…言ったそばから二人きりで茶など……っ!!」
ぶるぶると拳を震わせ盛大に叫ぶ絳攸に、恥ずかしながらは全く反論することが出来ない。怒られたことが哀しいというより、自分の間抜け加減に呆れ果て、じわりと涙が浮かび始める。
その様子にすぐさま気が付いた楸瑛はさすがというかなんというか。しかし俯いたままの彼女を叱る絳攸は頭に血が上っているのもあり、未だ気づけていない。楸瑛は困ったように頬をかいた。
原因云々は置いておいて、さすがにこれ以上はいくら何でも、可哀相だ。
「いいか!俺はだな___!」
「まぁまぁ、絳攸。ここがどこだか分かってるかい?あんまり大きな声を出していると邵可様のご迷惑になってしまうし、下手をすれば出入り禁止にされてしまうよ?」
「うっ…」
楸瑛の言葉は絶妙だった。これだけで絳攸の言葉を詰まらせ、思考までも制止させた。怒りが治まったわけではないが、ほんの一瞬絳攸が怯む。そして、左羽林軍将軍は、その隙を見逃さなかった。
「___えっ」
俯いて涙を堪えていたは急に腕を引かれ、無理やり椅子から立ち上がらされた。一体何が起きたのかと訳が分からず顔を上げた途端、自然の摂理に反した力が身体に働き、急に足元が浮いた。
「わ、なっ、藍将軍!?」
慌てたの声に、絳攸は空想世界の敬愛する邵可様のお叱りからハッと意識を戻らせた。だが先ほどの楸瑛の言葉があまりにも衝撃的過ぎたのか、咄嗟に状況を判断することが出来ず、動きが鈍る。
その隙に、小さな子供のようにを抱き上げた楸瑛が脱兎の如く駆け出した。
「今のうちに、殿!」
「なっ!楸瑛っ!!を何処へ連れて行く!!?」
慌ててその姿を捕らえようとするが、所詮は文官と武官。もともと鍛え方に大きな差がありすぎる。絳攸が伸ばした手は虚しくも空を切り、その様子に楸瑛は満足げに笑みを浮かべた。
「口煩い兄君から、愛らしい妹君は私がお守りしましょう」
「っ!ごめん絳兄上っ!」
「きっ貴様ぁ!!を返せーーーーっ!!!」
謝りながらも、自分を抱き上げる楸瑛にしがみ付くの姿に、絳攸の怒りは最大限に爆発した。
その声は外朝中に響き渡ったが、結局大事な妹は腐れ縁の悪いムシに攫われてしまった。
救出、そして逃亡
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