その日は公休日で、たまには、と散歩がてらに街中を歩いたときだった。
とある店の前で楸瑛は足を止めた。その店は扇や簪などちょっとした小間物を売っている若い女性に人気のある店で、彼の家のような大貴族の持つような高級品ではなく、どちらかと言えば庶民がちょっと値の張るものを買い求めるような物を売っていた。
楸瑛は店の端に並べられた小間物をじっくりと眺めた。
その中でも目を引いた丸い黒漆の品。艶やかな黒色の蓋には端の方にあまり大きくない蝶がひとつ。全体は白を基調に、僅かに赤が混ざっていてその羽根は淡い桃色の模様が描かれている。蝶全体に金の縁取りが施されていて、楸瑛は何とも可愛らしい蝶だなと思った。
そっと手に取ると、掌の真ん中にすっぽりおさまってしまう、小さなもの。何気なく蓋を開いてみると、楸瑛はやはり、と胸の内で呟いた。
黒の中央にさらに丸くおさめられている、赤。女性の口元を艶やかに彩る、紅だ。
しかし、と楸瑛は再びその蓋の蝶を見る。この蝶はとても美しいが、どちらかといえば可憐な色合いだった。内側の紅いそれとはどこか縁遠いものに思わて、妙に不思議な気分になる。
この蝶には、まだ紅は早いのではないだろうか
すると、ふと脳裏によく見知った女人が思い浮かんだ。年頃の娘だがまだどこか幼い、可憐で愛らしい彼女は、大人の女性といういはまだ少し縁遠い、この蝶のような少女だった。
楸瑛はふっと口元に微笑を浮かべ、その紅の蓋を閉じる。
そして指先で軽くその蝶を撫で、店の者を呼んだ。
さて、見事お買い上げとなったその紅を懐に収めて出仕した楸瑛は、ふむ、と腕を組んで考える。
「この贈り物を、どうやって渡そうかな」
悲しいことに自分と彼女の接点は決して多くは無い。さらに言うと妙な弊害が多いのも問題であった。
彼女と顔を合わせるのは、恐らく此処、外朝でということになる。
だが彼女は、此処では男性の振りをした、一官吏。そんな彼女に人前で紅を贈ることはあまり好ましくないし、何より彼女自身に嫌がられて受け取っては貰えないだろう。
さらに___これが最も難題であるのだが___自分の親友(本人は腐れ縁だと言うけれど)であり彼女の義兄である人物、そしてその義兄妹の養い親の存在、贈り物をしたなどと知れれば一体どんな災いが自分に降り注ぐことか。前者はいつも通り、もしくはそれ以上に烈火の如く怒るくらいだろうが、後者は…まず命を狙われるのは確かである。さすがの楸瑛も、それは避けたいところだった。
第一条件は、互いが外朝にいる時に贈ること。
続く第二条件は、人前を避け、人目のつかない場所でコッソリと渡すこと。
そしてこれはあくまでも楸瑛自身の希望なのだが…彼の親友(しつこいようだが本人は腐れ縁だと言うけれど)ならば即刻「常春」と罵ること間違いない、第三条件。
「どうせ贈り物をするのなら、良い雰囲気で贈りたいね」
彼を“藍様”と呼び慕う女性であれば、手を組んでうっとりするほどの笑みをたたえ、楸瑛はそっと懐にあるそれに手をあてた。
贈られた相手は、どんな反応を見せてくれるだろうか。喜んでくれるだろうか、それとも困らせてしまうだろうか。
「とても、楽しみだな」
人知れずそんな一言を零し、楸瑛はゆっくりとその時を待ち望んだ。
それから数日、毎日彼女と顔を合わせるものの、一向に条件が揃わない。
出会う場所は外朝の回廊や府庫ばかりで、当たり前だが他の官吏は近くにいるわ妙に知り合いと一緒になるわ(府庫では仕方が無いのだが)と全く機会に巡りあう事が出来ない。
さらには己の普段の行いのせいか、それとも義兄の躾が行き届いているせいか、悲しいことに彼女自身楸瑛と二人きりになることを少々避けている様子だ。最も、運よく二人きりになる機会があったとしてもすぐに義兄もしくは全く関係の無い紅家家人が湧いて出るかのように現われ、その機会は一瞬で泡となって消えてしまうのだが。
そんなこんなでほんの少し自信消失気味になりかけ始めたある晩、ついに楸瑛にツキがまわってきた。
それは、実に月の美しい晩だった。
楸瑛は人気の無くなった回廊を優雅な歩調で進んでいく。
風の噂によると、吏部ではあの尚書殿がいつものように膨大な量の仕事を溜め込み、結果、その同期の友人である戸部の尚書殿が堪忍袋の緒を切らしてしまったらしい。仮面の尚書は青筋を浮かべながら問題の尚書の部下であり養い子である吏部侍郎に「明日の朝までに戸部への書簡を寄越さぬというのなら、吏部の予算を全て削ってやる」と立派な脅迫を告げたとのことだ。
「絳攸には悪いが、やっと条件が揃いそうだよ」
吏部侍郎は今宵、遅くまで仕事、もしくは徹夜をすることだろう。ちなみに問題を作った張本人は非道にも知らぬ顔でさっさと帰宅したと聞く。今頃吏部では精鋭部隊が躍起になって仕事をしているに違いない。そんなことを想像しながら楸瑛がたどり着いた場所は、府庫だった。
そっと扉を開き、宿主が帰った部屋に入れば、辺りは暗く、唯一奥の窓際だけが月明かりで明るく照らされている。そこに狙い通りの人影が見え、楸瑛は静かに笑みを深くした。
義兄と同じ部署で働く彼女だが、今回の徹夜ははあくまでも“精鋭部隊”のみのようだ。働き者だが、まだまだ経験の浅い彼女はそれに含まれない。だからこうして、邪魔にならない場所で義兄を待っているのだろう。仮に仕事が徹夜になりそうでも、一応はここで待ち、義兄の指示を待つ少女は悪鬼巣窟の住人とは思えない程、とても素直で健気だ。
完全には気配を消さずに静かに窓際に向かう。
思いのほか、三つの条件が揃ったことに独り感謝をしながら。
「美しい月夜だね、殿」
あまり大きくない声で呼びかけると、窓の外を眺めていた少女はくるりとこちらを向いて目を丸くした。普段は結われている髪が今宵は珍しくおろされていて、彼女が少しだけ首を傾けるとさらりと流れ落ちる。
「…藍、将軍?」
「こんばんは、私も一緒に月見をさせて貰ってもいいかい?」
「あ、えぇっと…」
楸瑛の申し出に少々困惑した表情を浮かべる。恐らく義兄の厳しい言いつけを思い出しているのであろう様子だが、どこか有無を言わさずといった雰囲気の楸瑛に圧され、仕方なくは了承した。それに気をよくした楸瑛はゆっくりと隣の椅子に腰を下ろした。
「髪をおろしているんだね」
「え、あ、はい。ずっと結ってるとさすがに疲れてしまって…」
「そうしていると男ばかりの中で官吏として働いているとは思えないほど、女性らしい」
「うっ…それは、困ります…ね」
夜に、二人きりというのを意識しているのか、妙に硬い表情をしている彼女が可愛くて楸瑛はふっと微笑む。しかし意識されるのは嬉しいがあまり警戒されても困るので、それを解そうとそっと彼女に手を伸ばした。
「……あ、あの…藍、将軍?」
不意に伸びてきた手が、そっと頭に触れ、そのままを髪を撫でる。困ったように彼女は楸瑛を見たが、にっこりと笑みを返されただけで、その手が止むことは無かった。
楸瑛はその髪の柔らかな感触を味わうように、出来るだけ優しく小さな頭を撫でる。ひとたび撫でる毎に、緊張を解すかのように、何度も何度も。始めは全身を強張らせていた彼女も、次第にその優しい手つきと温かな温度に慣れ、表情を和らげていった。
「藍将軍は、こんな時間にどうされたんですか?お仕事はもう…終わってますよね」
硬い表情が無くなった頃合いを見計らって、楸瑛は名残惜しくもの髪から手を引いた。そしてきょとんとした表情で尋ねてくる彼女に微笑む。
「実は君に渡したいものがあってね」
「私に、渡したいもの…?」
楸瑛は懐から例の贈り物を取り出した。何日も何日も大切に持っていた、丸い黒漆。武官らしい大きな手の平に乗る、小さなそれをは覗き込んで、首をかしげた。そしてその表面に描かれた蝶を見て、小さく感嘆の声を零す。
「うわぁ…綺麗な蝶の絵柄ですね」
「私も最初にそう思って、手に取ったんだよ。この可愛らしい蝶が、殿のように思えてね」
穏やかな口調でそういいながら、楸瑛はの手をとり、その黒漆を彼女の手の上に置いた。
「私からの、ささやかな贈り物だ。是非受け取って欲しい」
「えっ!で、でも、こんな高価な品を…頂く理由が、ありません…」
「これは君が思っているほど高価なものではないし、理由は…私が君に貰って欲しいと思うから、では駄目かい」
「で、でも…」
もともと遠慮がちな性格のは、どうしても受け取り難いらしく、困ったように自分の手に置かれたそれと楸瑛の顔を交互に見遣る。楸瑛は静かに目を伏せ、そっと握りこむように彼女の手を両手で包み込んだ。
「蓋に描かれた可憐な蝶を見たときに、すぐに君のことが頭に浮かんだんだ。だから君に贈ろうと思った…これでは、理由にはならないかな?」
視線を上げ、楸瑛は真っ直ぐに目の前の少女を見つめながら、僅かに握る手に力を込める。
本当に、この蝶を見たときにこの少女が思い浮かんだ。どうしても彼女に贈りたいと思って、買った。男性の振りをして必死に官吏であろうとする彼女に対し、失礼かもしれないと後ろめたい思いを抱きながらも、心から受け取って欲しいと願う。
その想いが手を握る温度となって伝わったのか、先程とは少々違う様子でが眉を下げる。
「ほ、本当に私が貰っても、いいんですか…?」
「勿論だよ」
「………有難う、ございます」
その言葉にほっとして楸瑛が手の力を緩めると、はきゅっと手中にある漆を握り、空いてる手も添えて大事そうに自分の方へと引き寄せた。手に持っている漆の蝶を眺め、嬉しそうにはにかむ彼女を見て、楸瑛も微笑んだ。暫く彼女の様子を眺めていると、ふと、その蓋の存在に気づいたらしい。不思議そうな表情を浮かべながら、はその蓋を開こうと指をかけた。
「これって…」
「紅だよ」
ぱか、と小さな音を立てて開かれたそこには漆黒に囲まれた、艶やかな紅。
「紅って、お化粧の…ですか?」
こくりと頷く楸瑛が頷くと、はどこか緊張した様子でその紅を見つめる。その妙にもの珍しそうな様子に、楸瑛はまさか、と苦笑を浮かべた。
「もしかして、紅を引いたことが無い…?」
楸瑛の何気ない問いに、は恥ずかしそう俯く。形のいい眉が、自然と寄せられた。
「無いわけではないんですけど…百合さんに、何度か悪戯されたくらいしかなくて…」
「自分では、無い、と…」
「…はい…」
こくりと頷いたまま、さらに俯いて顔を伏せてしまう。
これにはさすがの楸瑛も、盲点だった、と苦笑を浮かべるしかない。彼女は官吏であるのだから外朝では紅を引くことはないとしても、この様子だと公休日や自宅でもほとんど無いらしい。それも、母のような存在の勧めを“悪戯”と表現するほどに…。
かける言葉を失った楸瑛に、は月明かりだけのうす暗い中でも分かるほど頬や耳を真っ赤に染めた。
「…ひ、必要ないと、思ってたんです、官吏だし…。でも、やっぱり女としては…失格、ですね…」
「いや、そんなことは無いよ。君は官吏でいる時間の方が遥かに長いわけだし」
「……」
楸瑛の慰めもあまり効果が無く、は黙り込んでしまった。普段は官吏であることを誇りに思い、僅かな女性らしさも許さぬ彼女だが、やはり根本的な部分は“女”なのだろう。年頃の娘が、経験も、興味も無かったことが恥ずかしいようだ。彼女らしいといえば彼女らしい、そんなところがやはり愛らしくて、楸瑛は小さく笑ってしまった。いや、笑ってはいけないと思ったのだが、堪えきれず口元を手で覆いながら肩を揺らして笑い始めてしまった。
「…わ、笑わないでくださいよ…」
「い、いや…すまない。あまりにも君らしくて、つい…っ」
「……」
涙を浮かべ声を殺して爆笑している楸瑛に、は頬を染めたまま、キッと鋭く睨みつける。そんな愛らしい彼女の様子に楸瑛は謝りながらも、どうにか笑いを抑えこんだ。そしてふと思い浮かんだある提案を持ちかける。
「よかったら、私が教えてあげるよ?」
「…教えるって、藍将軍は女性じゃないでしょう…」
「女性ではないけれど、紅の引き方は知ってるよ。そうだね、君よりは上手いんじゃないかな」
「…経験豊富そうですもんね」
半眼になって軽蔑の眼差しを存分に向けてくるに、楸瑛は僅かに空笑いをした。全く、痛いところを突かれた。誤魔化すように半ば強引に事を進めようと、さっと手を伸ばし、が「あ…」と小さな声を漏らすよりも早く彼女の手からそれを抜き取った。一瞬遅れては取り替えそうと手を伸ばすが、楸瑛の方が上手、上手くその手から逃れる。
「じ、自分で出来ますから…!」
「では、そんな君に一つ。紅を引くはどの指を使うか知っているかい?」
「……え、…こ、小指…?」
思いがけない問いかけに一瞬うろたえながらも返答をする。その答えに楸瑛はやはりな、と苦笑を浮かべた。
「まぁ、小指を使う人も多いけどね」
「えっ、違うんですか?」
「正確には、ね。では、紅を引く基本的なことから教えようか。さ、目を瞑って」
「うっ……」
「間違えた罰だよ。それに、基本も知らないようでは女性としてどうかな」
「……」
言われた通りにするのは悔しいに何だか嫌だった。が、楸瑛の言ったとおり、基本的なことを知らないのは、自分でも問題があると彼女は思った。いつもなら官吏なんだから、と思うところだが、やはり、女なのだ。知らないのは情けないし、別に普段は必要なくても、知識として、知りたい。暫く眉間に皺を寄せて葛藤をしていただったが、ため息をついて、大人しく目を瞑った。
さすがにこればかりは断られるだろうか、と思っていた楸瑛は、意外にも大人しく従った彼女に一瞬呆気にとられる。だがやはり年頃の少女だな、と思い、彼女にばれないようにひっそりと笑いながら、漆の蓋を開ける。贈っておきながら、最初に紅に触れるのが贈り手というのも妙だな、と思いながら右手の指でそっと紅をとった。
独特の香りが漂い、二人を取り巻く。
楸瑛は卓上に黒漆を置き、大人しく待っているに身を寄せ、左手を頬に添える。楸瑛の手の感触にびく、と肩を震わせ、不安そうに眉をひそめる彼女に、楸瑛は苦笑を交えない。
「そんなに固く口を閉じていては、紅を引けないよ」
「う…はい…」
小さな返事が聞こえたと思うと、彼女のそれがゆっくりと動く。
不安そうな眉、震える長い睫毛、そして、薄く開かれた愛らしい唇。
あどけない少女の表情に、不意に背徳感を覚え、楸瑛の心臓はどきりと跳ねた。
目を閉じているだけでなく、楸瑛自身も緊張し始め、そっと右手を伸ばす。
柔らかな唇に指先が触れ、しっとりとした感触。
熱いな、と楸瑛は思った。けれど自分の指が冷たいのか、彼女の唇が熱いのか、分からなかった。
無意識の内に、小さく固唾を呑んで、楸瑛はそっと紅を引く。
「ん…」
不意に零れた、少女の吐息に、ぞくりと背筋が粟立った。楸瑛の鼓動が、僅かに速まる。
「…唇を、合わせてごらん…」
静かに楸瑛が促すと、はほんの少し強く唇を結ぶ。それによって上唇にも紅が移り、程よく色づく。楸瑛の紅を引いた手が遠のくと、が恐る恐る瞼を開けた。
月明かりの下で、二人は言葉も無く、視線が交じる。
はどうしたらいいのか分からず、微動だに出来なかった。至近距離に楸瑛の整った顔があり、添えられた左手はそのまま、何より、真っ直ぐと見つめてくる双眸が、見たことも無い程真剣で、それから逃れられない。
一方視線を外せないのは楸瑛も同じだった。まさか目の前の少女がたったこれだけのことで、こんなにも美しく艶やかな色気を帯びた女性になるとは思いもよらず、瞳も、意識も、心までも彼女に奪われていた。
無音の空間で、全てを忘れて、見詰め合う。
触れ合う掌と頬の体温が混じり合って、そこから互いの鼓動が伝わってしまいそうだった。
呼吸さえ忘れる程の、もどかしい距離。
カタン
「!」
「!」
不意に外で風が吹き、窓が揺れて小さな音が響く。途端二人はびくりと身体を跳ねさせ、ハッと意識を取り戻した。
楸瑛は慌てて左手を離し、はパッと顔を俯かせる。互いに心臓が飛び出そうになって、冷静さを取り戻そうと必死だった。
危なかった、と楸瑛は片手で口元を覆い、小さく息を吐く。あのままあの音が無かったら、恐らく彼女に口付けていたであろう自分に気づき、少し反省した。まさか紅一つでこうなるとは思ってもいなかったのだ、さすがの“藍様”も、動揺を隠せない。
一方はというと、沸騰しそうなほど顔を真っ赤にしていた。訳が分からなくて、とりあえず落ち着こうと両手で頬を押さえ必死に熱を引かせようとする。
先に冷静さを取り戻したのは、やはり楸瑛であった。俯いたままの少女に苦笑を浮かべ、そっと手を伸ばして頭を撫でてやる。楸瑛の手に一瞬身体を強張らせたものの、優しい手つきで撫でられ、落ち着いたはゆっくりと顔を起こした。
「あ、あの…」
「…紅、とても似合っているよ」
「あ…」
紅のことなどすっかり忘れていた彼女は、そのことを思い出し、指先でそっと唇に触れる。いつもとは少し違った感触に、ぱちぱちと数回瞬きをして、それをなぞる。
「あ…結局、紅を引く指って…」
「あぁ、そうだった。これだよ、殿」
「…くすりゆび…」
楸瑛は右手を持ち上げ、その内側を彼女に見せる。一本だけ先が紅く染まっている、薬指。
「薬指は、昔は紅差し指と呼ばれていたそうだよ。とりたてて使われることの無い指だから清潔だろう、という理由から紅や薬を塗るのに使われていたそうだ」
「言われてみれば…あまり使わない指かも…というか、使いにくい指、ですね」
「だから、小指を使う人が増えたのかもしれないね」
楸瑛の言葉に、はこくんと頷いてみせる。女の基本知識として知りたかった内容が、思いのほかちょっとした雑学のようなもので、新しい知識に少しだけ嬉しくなる。
「薬指も小指も、どちらにしろ紅を引く仕草は女性の魅力的な仕草の一つだよ」
そう言って楸瑛は卓上に置かれていた紅に蓋をし、その黒漆を再び少女の手に渡す。
「官吏として働く君には勿論こんなものは必要ないし、そのままでも十分魅力的だ。でも、たまにはこうして女性らしくしてみるのも、君の魅力の一つになると思うよ」
「……女性、らしく…」
「官吏である君も君だけど、女性である君もまた、君だからね」
楸瑛の言葉はにとって、あまり考えたことの無いものだった。官吏であることに必死で、秘密が明るみに出てはいけないとばかり思っていたから、そういう心構えに欠けていたのかもしれない。
「…そう、ですね。まだ慣れないけど、公休日とかになら…そういうのも良いかもしれませんね」
ふっと微笑んだに、楸瑛も満足そうに微笑を返す。紅を引いた顔で微笑む彼女は、やはり素直で可愛らしい少女に変わりは無いようだ。
「紅、頂きますね、藍将軍。こんな素敵なものを…本当に有難うございます」
「気に入っていただけたのなら、私も嬉しいよ」
楸瑛は再び潤琳の髪に手を伸ばし、柔らかく緩やかにそれを撫でた。
どうかこの愛らしい少女が素敵な女性になりますように、と願いながら。
月と、紅差し指
無駄に長いですね…小心者なので寸止めで勘弁してください…。紅を“黒漆(くろうるし)”って読んでいますが、何か“漆黒”と間違えそうです。でも他に何て呼べばいいのか分かりませんでしたので…どうかご容赦を…orz
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