紅家当主である紅黎深は、隣りながらも僅かに自分の後方を歩く女をちらりと横目で見遣った。扇をぱたぱたとはためかせ、いかにも何気ない様子で己の妻を眺める。その視線に気づいた百合は二度瞬きをして、真っ直ぐと見た。
 
「…何?」
 
きょとんとした表情は実年齢よりもどこか幼く、身長差から必然的に生じる上目遣いも傍から見れば非常に可愛らしい。が、黎深はぷい、とすぐに顔を背けてしまった。
 
「別に」
「…何よそれ」
 
初々しい___などといえたものではなかったが___新婚はとっくに過ぎ去っているものの未だに認めがたいというか信じがたい自分の夫に、百合は呆れながらもいつもように「まぁいいか」であっさり疑問を切って捨てた。
旦那様の理解不能な行動なんて今更気にすることでもない、というのが妻である彼女の心得であった。
 
「それより、どこ行っちゃったのかなぁあの子」
 
ふう、とため息交じりに呟いた言葉は一見呆れているようにも聞こえるが、若干の心配の色も伺える。百合は肩を落として言葉を続ける。
 
「どうしようもない程、迷子だよね」
「フン」
 
どうでもいいと言った様子で黎深は鼻で笑う。しかし百合には分かる。実のところ、黎深も結構心配しているのだ。でなければこうして、自らの足で探しに来る筈もない。
素直じゃないな、などと思ってしまい思わず笑いを零しそうになるが彼の機嫌を損ねてしまうと面倒なので必死に押し殺した。
 
ふと、百合は無駄に広い庭の端に何かを見つける。かなり離れたところからではあったが、すぐに探している少年であると分かりほっと胸を撫で下ろした。
 
「いたいた、良かったあ見つかって」
「あんなところで迷っていたのか」
 
ほっとする妻と、呆れて力なく扇を仰ぐ夫。
百合は少し駆け足になって黎深を追い越し、回廊の出来るだけ少年に近いところで立ち止まった。そしてすぅっと息を吸って、嬉々とした声で少年の名を呼ぶ。
 
「絳攸!」
「!」
 
木々に埋もれて見事に道を見失った少年は不意にどこかから呼ばれた自分の名にハッとする。この声は、百合さんだ!とパァっと顔を輝かせて後ろを振り返った。
 
「百合さんっ…黎深さま!」
 
振り返った先には、綺麗な血の繋がらない母と扇を仰いでいるやはり血の繋がらない父が立っている。
百合どころか黎深まで一緒にいたので、驚いたと同時にあまりに嬉しく、絳攸はまっしぐらに二人目掛けて駆け出した。
 
黎深は扇で口元を覆いながら、内心どこか安堵していた。相変わらずとんでもなく迷子な養い子であるが、見つかってまぁ良かったなと思う。そして駆け寄ってくる姿を見ていたが、ふと視線をすぐ近くにいる百合に向けた。
 
横顔の彼女は、とても幸せそうな顔をしていた。
 
僅かに細められた瞳と、緩んだ頬、柔らかな唇には微笑が綻んでいて、眼差しは穏やかで暖かい。それは夫には決して見せない、子を想う母の表情。黎深には決して向けられることのない、駆け寄ってくるその子供のみに向けられたものだった。
 
「探したわよ絳攸」
「あっ、す、すみませ…」
 
探してくれた、それもわざわざ二人で、といことに申し訳なく思った絳攸はしゅんとして謝罪を述べようとしたが、百合の細く綺麗な指がそっと唇に当てられ、制止されてしまった。
 
「そうじゃないでしょ、絳攸」
 
ふふ、と笑みを浮かべて言う百合に絳攸は僅かに頬を赤らめて、そしてその言葉に従う。
 
「えと、…あ、りがとうございます…」
「どういたしまして。見つかってよかったわ」
 
満足そうにさらに笑みを綻ばせる百合に絳攸も嬉しくなって照れながらも笑った。
謝罪と御礼は全く違うのだ、と以前百合に教えられたことを絳攸は生涯忘れないだろう。
 
微笑ましい母子の様子を、疎外感を感じながら傍観していた黎深は徐にむっとした。扇を仰ぐ手はぴたりと止み、ただ静止した状態で口元を覆う。
何故だか分からないが、妙にむかむかする。腹立たしい。
 
遠慮がちな絳攸とは違って、思い切り百合の時間を当然のように我が物としている黎深はすでに彼女のいろんな表情を見てきた。笑った顔も呆れた顔も怒った顔も落ち込んだ顔も泣いた顔も、寝顔でさえ、見てきたし、しっかりと記憶している。夫なのだから当然のことだ、と思う。夫だけに許された一種の特権というものだ。
 
しかし、今の表情はどうだろうか。
 
過去にも数回、見てきたのは確かである。が、決して自分に向けられたものでは無かった。いつもいつも、目の前にいる少年に奪われ、自分のものにすることが出来ない。あの微笑だけは、何故か自分のものではなかった。
 
黎深に対して百合が微笑むことだって、勿論ある。はにかむように、少し照れたように微笑む顔は何度も見てきたし、正直に言えば実は結構気に入っている表情である。泣き顔と寝顔と病に苦しむ顔に並ぶお気に入りである。
しかし、先ほどの微笑みは、自分に向けられるものとは違う。本当に心から大切なものを慈しむ、溢れんばかりの優しさと愛情に満ちた___と兄上だった表現されるであろう___表情だ。
 
確かに絳攸は血は繋がらないが自分と百合の子供である、が自分は百合の夫である。生涯を共にするたった一人の相手だ(と兄上がおっしゃっていた。)
 
それなのに、あんな小さな子供が与えられえ、どうして自分には無い?
全くおかしな話ではないか。
大体百合も百合だ、どうしてそんなに甘やかす。子供を見れば誰彼構わずめためたに甘やかしおって。
相手が子供であるから千歩譲って見逃してやっているが、大の大人であったら即刻抹殺しているところだ。
 
思い起こしたら限が無い、やりどころの無い感情に、黎深の眉間に一層深く皺が刻まれる。
___くそっ…全く、面白くない。
 
 
とうとう我慢が限界に達し、回れ右をして立ち去ろうと思った矢先、百合が黎深の方を見た。
つい一瞬前まで背の低い絳攸に視線を向けていたこともあって、伏せ目がちなまま、顔を向けられ、ゆっくりと瞼が持ち上げられる。まさにほんの一瞬に過ぎないその仕草が、何故か黎深にはとてもゆっくりな動きに感じられた。百合の長い睫毛が少しずつ持ち上げられ、琥珀色の瞳が向けられる様が、黎深のしっかりと脳裏に焼き付けられる。
 
不意打ちなその眼差しに、不本意ながらも黎深の心臓は大きく鼓動を打った。
色香に誘われたというよりは、何か神聖めいたものを見てしまった背徳感のようなものが一瞬だけ思い浮かぶ。
 
何だ今のは…!どこでそんな“瞳”を覚えた…っ!という意味不明な思いが生じては消え、また生じては消えてゆく。動揺のあまり、うっかり手に持っていた扇を取り落としそうになったというのは彼のみぞ知ることであった。
 
 
視線をあげた百合は、先ほどのように小首を傾げそうになる。目の前で自分を見下ろす男の様子が、またしてもおかしい。いつものように「まぁいいか」で済ますのはさすがにちょっとまずいかな、と思うほど偉そうな立ち振る舞いの夫は固まっている。
また何か妙なことでも思いついたのだろうか…それとも固まるほど気に食わないことがあったのだろうか、と読めない彼の心情にさすがの百合も少々困惑していた。何て言えばいいのか分からず、とりあえず硬直しているのをどうにかしようと思い、そっと彼の名を口にした。
 
「黎深…?」
「……」
「…黎、深……?」
「…ハッ!」
 
二度名を呼ばれ、やっと正気に戻った黎深は瞑目して重くため息をついた。
一体今のは何だったのだろうか…よく分からないがどうやら自分は固まっていたようだと己の現状に気づき、次第に普段の冷静さを取り戻す。そして何事もなかったかのように再び軽く扇を仰ぎだす。
冷静になりながらもどこか頭の隅で、たった今見た様子を伺うような表情もまぁまぁだな、と考え、おかしな格付けの中で妙な位が上がっていた。どこまでも我が道を行くとはまさにことことである。
 

両親の奇妙なやりとりに、何となくついていけない絳攸は、ふとあることに気づく。
黎深さまも、自分を探してくれたのだろうか…だとしたら、まだ御礼を言っていない、と。黎深に御礼、と考えた途端、絳攸に緊張が走った。
御礼を、言わなければ…!
良いことをして貰ったら御礼を言う、というのが両親から教わった礼節の一つであった。意を決して、絳攸は顔をあげ黎深を見た。
 
「れ、黎深さま…っ」
「…なんだ」
 
いつもどおりの冷ややかな声に、折角の決心も、うっ、と揺らいでしまう。が、ここで諦めてはいけない。拾って頂いたのだ、教育をして貰っているのだ。きちんとした礼儀が出来なければそれこそ嫌われてしまう…!そう思った絳攸は、必死に言葉を搾り出す。
 
「あ、あの…れ、黎深さまも、ぼくを…さ、探してくれたのでしょうか…」
 
言った、言った!恐れ多い言葉ではあるが、早合点して早々に御礼を述べ「勘違いだ」と言われないよう、まずはきちんと確認する。つい最近になって、絳攸が学習したことであった。
 
「私は散歩をしていただけだ」
「!」
 
さらりとそう返され、絳攸は大きなショックを受けたと同時に、とても恥ずかしくなった。探してもらえたなんて、都合が良すぎる考えであったのだと自分を叱咤する。確認して良かったと思うと同時に、虚しさをも感じた。
 
黎深の扇を仰ぐ手が優雅にふり幅を広げる。
仕返しとでも言わんばかりの攻撃であったが、結果として絳攸が落ち込み、黎深はとても満足していた。
目の前の少年が落ち込む様子は、何度見ても飽きない。寧ろ、何度でも見たいくらいである。
もし犬っころのような耳や尾が生えていたら、盛大に垂れ下がって、より一層視覚を愉しませただろうに、と変なところで残念がる。黎深自身未だ気づいてはいないが、絳攸が落ち込む様は、拾い主のお気に入りの一つであった。
 
とんでもない夫の発言に、大いにしょげてしまった可愛い子を見て、百合は呆れてため息をついた。悪いのは黎深の言葉であるが…何ともすれ違いな父子の様子はもう随分見てきたが、やはりというか何というか…と肩を落とす。
 
「黎深、そんなこと言わないの。絳攸も、黎深は捻くれ天邪鬼なんだから、あんまり真に受けちゃダメよ?」
 
妻の叱咤の言葉に黎深はぷいっとそっぽを向き、母の慰めの言葉に絳攸はこくりと小さく頷いた。どうしようもなく困った夫と、可哀相だけど可愛い子を持ったものだと、何だかおかしくなって、自然と百合の口元には笑みが零れた。
 
「さ、絳攸も見つかったことだし、お茶にしましょ」
 
絳攸の手を引いて、拗ねた黎深がそれでも隣まで寄ってくるのをしばし待って、幸せな思いを胸に百合は笑った。
 
 
暖かい気候の中、家族団欒といえなくもない3人の様子に、紅家家人たちは揃って頬を緩ませた。そんな穏やかな、幸せいっぱいの、ささやかな日常。



団欒



初、百合姫さま夢(あくまで夢です…)
黎深さまの嫉妬も、上手くいかない父子のやりとりも、とりあえず入れたいだけ入れてしまいました。やみつきになりそうです…(笑)