ぶんじつ! 4 





ジリジリと焼けつくような日差し。普段よりは静かな、けれど蝉の声が鳴りやまない8月の学校。
気温30度を軽く超える猛暑の中、私の頭は文化祭のことでいっぱいだった。


「あつい…」

絞り出た声と共に、こめかみを汗が伝う。上はTシャツに下は制服のスカートという、なんとも中途半端な格好で、私は必死に日陰を探しながら校内を動き回っていた。

夏休み真っただ中で、普通なら夏期講習やらで受験を意識する時期だけれど、氷帝は一部の外部受験組を除いてほとんどがこのまま高等部にあがるため、大抵の生徒は部活動の最後の夏に情熱を燃やす。私もまたその持ち上がり組の人間だった為、『3年の夏』は全て文化祭のことに注がれていた。

「明良ーっ!」

貴重な日陰のスペースをのんびり歩いていると後ろから大きな声で呼ばれ、私はゆっくりと振り返った。すると、少し離れたところからこちらに向かってくる美樹の姿が目に入ってきた。

「あれー何で美樹が学校にいるの?」
「ん、今日図書の貸し出し日でさ。あたしその当番なのよ」

そう言って彼女は手に持っていた当番表をひらひらと振って見せる。私は「ああ、そっか」と納得した。

「これから図書室行くの?」
「そ!明良は?実行委員の仕事?」
「うん、今日ホール発表のリハーサルなんだ」

2人でしゃべりながら並んで歩く時も、何も言わなくとも自然と日陰を選んで進んでいくのはいつものことだ。夏も冬も好きだけど、暑過ぎるのと寒過ぎるのはイヤ、と言ったのは私だったか美樹だったか…。

「暑い中お疲れ〜まぁねホールなら涼しいか。図書室もだけど」
「それが唯一の救いですね」
「確かに」

そんな他愛ない会話で笑いながら、美樹は図書室へ、私はリハ準備をしているホールへと向かう為、分かれ道になるところで「じゃ、またメールするね」と言って各々の目的地へ向かった。

氷帝は、もともといろんな意味でハイレベルな学校で、都内の私立の中でも結構有名だ。それが、まぁ例の王様がやってきてからは、磨きがかかったというか拍車がかかったというか…とにかく、あっちもこっちも施設が新設され、それらは学校行事においても重宝されていた。とりわけ今日リハで使っているホールというのは、観客席の多さ、最新の音響照明設備、何よりも快適な冷暖房完備という至れり尽くせりの施設で(一応跡部が入学する前からあったけど)、文化部の発表にはもってこいの環境だ。


「確かタイムテーブルだと、今は吹奏楽部のリハーサルの最中だよね」

ホールのエントランスに入ると、その空気の涼しさに感動する。一瞬ソファーに腰かけて寝てしまいたい衝動に駆られながらも、委員長としてそれはダメだ、と気を引き締めて、静かにホール内へと入った。内側の扉を開けた途端、壮大な音楽が響き渡る空間に思わず意識を奪われてしまう。私は専門的なことなんて何も分からないけれど、こういう迫力のある演奏は好きなので、しばらくその場に立ち尽くして聴き入ってしまった。

相変わらず気合の入った演奏だけれど、やはりリハーサルなので時折中断されることもある。実行委員側としては、最終的に移動や準備を含めて決められた時間内にきちんとおさまり、全てのタイムテーブルがスムーズに進行すればいいので、あとは各部自由にやってもらっている。なので、特に口出しすることもなく、基本的に眺めているだけだった。

ふと、暗がりに誰かがいることに気付く。よーく目を凝らして見てみると、制服姿で腕組をした跡部が壁に寄り掛かって立っていた。

私は、声をかけようか迷った。正直、声をかけづらかったのだ。けれど跡部がこちらの存在に気付き、暗闇の中でしっかりと目が合ってしまった。これでは気付かないふりも出来ず、少し緊張しながら、私は跡部の方へと歩み寄る。

「跡部、」

呼びかけて、その次になんて言えば良いのか分からず、私は視線をステージの方へ泳がせながら「すごいね…」とだけ、ぽつりと零す。跡部はしばらく黙ったままで、そしてまるで溜息のように「あぁ」と返事をした。私には、跡部のその反応が意外で、もっとこう「もっと上品で壮大な音を出せ」とか何とかいつも通りな発言をするのかと思っていので少し驚いた。

「…あいつらがこうやってステージに上れるのも、あと僅かだからな」

密やかに低く囁かれたその言葉を、私はしっかりと聴きとってしまい、全身が痺れるような感覚に陥る。

跡部は、きっと誰よりも知っているんだ。
あの中には私たちのような3年もいて、彼らもまた少しずつ引退するということを。
最後の想いを、全てにぶつけるその情熱と、真剣さを。

私は、何かを言おうとして、すっと息を吸った。


『全国大会、お疲れ様』

『惜しかったね』

『すごかったね』

『高等部では絶対全国制覇するんでしょう?』

『これからも頑張ってね』


いろんな言葉が浮かんだけれど、ひとつも言葉にならなかった。



言えなかった。



もどかしくも何も言えず終いな自分に落ち込みながら、跡部と二人でステージを眺める。
しばらくして、先ほどまでは涼しくて快適だった冷房が、今は汗が冷えて肌寒く感じられ、袖からむき出しの腕を静かに擦る。すると、私のその行動を目敏く見つけた跡部が「かなり冷房が効いているな…出るか」と声をかけてきたので、私はどうしようかとしばし考えた後、大人しく跡部の後に続いた。

「当日は大勢が入るから大丈夫だろうが、さすがに人がいないと冷えるな」
「そうだね…」

ホール内とは異なり、エントランスは眩しいくらいに明るい。煌々と照らされる目の前の人を、私は真っすぐと見ることがなかなか出来ずにいた。私より少し前を歩く跡部の足元に視線を落とし、そして高貴な制服姿の彼が革靴であることに気付き、切なくなった。

…跡部は制服の時はいつも革靴のはずなのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
まるで…もう二度と彼のユニフォーム姿が見られないような、そんな気がしてしまって、泣きそうになる。

「おい、矢野?」
「…ん?」

不意に呼ばれて、私は何も考えずに顔をあげてしまった。いや、あのまま下を向いていたら涙がこぼれ落ちてしまいそうだったからこそ、すぐさま跡部の方へ顔を向けてしまったのだ。けれど、どうやらそれは間違いだったみたいで、上手く表情がつくろえない内に彼と視線が合ってしまい、跡部の蒼い双眸が驚いたように見開かれる。

「お前…どうしたんだ…?」
「え…何が?」
「何がじゃねーよ、何て顔してんだ」
「何て顔って、失礼な…」

視界に映る跡部が僅かに歪んで見えるので、涙ぐんでしまっているのは間違いない。それでも、幸い声色は普段通りのままだったので、軽く笑うことは出来た。でも、跡部の表情は険しい。眉間にしわを寄せて、怒っているような悲しんでいるような顔をする。

「…泣くな」
「え?やだ、何言ってんの。泣いてないよ」
「泣きそうじゃねーか。何があったんだ」
「何もないって…ちょっと、さっきの跡部の言葉に感動したというか…センチになりかけただけ」

あながち嘘ではない、適当なことを言って少しだけ笑ってみたけれど、跡部は固い表情のままだ。じっと見ていると、彼の瞳に自分の情けない顔が見えてしまいそうだったので、力を抜くようにそっと目を閉じる。大丈夫、涙は落ちない。そのことに安堵し、再びゆっくりと目を開けた。

「3年にとっては、最後の文化祭だね」
「…まだ、高等部でもあるだろ」
「うん。でも、たった一度きりの中3の文化祭だよ」
「…そうだな」

跡部は低くそう呟いて、片手をすっと私の方へ伸ばしてきた。またつねられるのか?と一瞬思ったけれど、そうでなくて、彼の指先がこめかみの辺りの髪をそっと撫でた。優しい感触に、胸が詰まりそうになる。


そう、この先また機会はある。けれど、同じ日々は二度とない。

それは、文化祭のような行事だけではなく、日々の学園生活だってそうだ。もちろん、部活も。


楽しみで仕方ないはずなのに、どこかでこのまま時間が進まなければいいとも思えてくる。
このままずっと、終わらなければいいのに__と。

「ねぇ跡部」
「あん?」
「いい文化祭に、したいな。皆の想い出になるような、最高の文化祭にさ」

願望であり、決心でもあるその言葉は、心からの本音。
私の言葉にを聴いて、跡部の瞳が僅かに揺れた気がした。きっと、彼もこんな気持ちでいっぱいだったに違いないと、そう思った。

「しろよ」
「え…?」
「してみせろ。お前の力で、最高の文化祭とやらに」

今度は私が目を見開く番だった。跡部は真っすぐと、真剣な様子でそう言い切った。

「生徒会長がこの俺で、実行委員長が矢野、お前なんだ。それくらい出来て当然だろ」
「…何それ、何て傲慢な発言なの」

思わず笑いが込み上げてきて、私は声を出して笑った。それを見て、跡部もいつものようにフン、と不敵な笑みを浮かべる。

「ふふふ、いいよ、やってみせるから。ちゃんと見てなさいよ?」
「ハッ、きっちり見届けてやるぜ」

跡部はそう言うと、先ほどと同じ手で、今度は手のひらでしっかりと私の頭を撫で、そして「じゃあな」と踵をかえし外へと出て行った。残された私は、撫でられた個所に自らそっと触れ、静かに目を閉じる。

思い込みかもしれないけれど、あの瞬間、跡部の想いを託された気がした。
テニスで全国制覇より、学校の文化祭の成功の方がよっぽど楽で簡単なはずだ。それでも、私にとって大事な役目であり、全力でやらなければ叶わないものだから。

「…頑張ろう」

皆のために。跡部のために。そして、自分のために。


改めて決心すると同時に、何かが胸の奥でカチリと嵌った音がした。