怜悧冷徹冷酷非情な氷の長官と恐れられる紅黎深は、たった今完全に固まっていた。
動揺や混乱などという言葉は、彼の愛すべき兄一家以外に関しては一切有り得ないものであったが、今回は例外らしい。
「……」
つまり、彼は珍しくも___それはもう天地がひっくり返るほどに___動揺して、困惑しているのである。
百合は、今更遅いと分かっていながらも、酷く後悔していた。だからと言って引っ込みがつかなくなってしまったのも事実。結局押すにも引くにも出ること無く、現状のままを維持するしかなかった。せめて火照った頬や耳を夫に見られまいとして、必死に顔を埋めるばかりである。黎深の、背に。
夜も更けたころ、百合は先に寝台に上がっていた。そしてふと横を見ると、同じように夜着に身を包んだ黎深が隣にやってきて、百合に背を向けて、寝台に腰を下ろした。
その様子を何気なく眺めていた百合は、ふいに黎深の背中を見つめた。
がっちり大柄、ではないけれど、広くて大きな背中だな、と思った。性格は抜きとすれば、顔立ちや背格好はそこそこ、結構見栄えが良いと言える。
別に、黎深がかっこいいと思うわけではないけれど、でも、良いなと思う。とくに、今凝視している背中は、百合にとってお気に入りであった。
広い背中が好き、などという嗜好はこれといって無い。けれど、ふと無償に抱きつきたくなる背中というものがあった。悪戯心を擽られるような、少しだけ胸が高鳴るような、そんな感覚に陥ることがある。今、まさに彼女はそんな感じであった。何故だか急に、黎深の背に抱きつきたくなったのだ。
しかし、いくら抱きつきたいという衝動に駆られたからと言って、相手は黎深である。可愛い我が子の絳攸であったら、ところ構わず迷いもせず思い切り抱きついたであろうが、黎深となっては話は違う。
夫婦でありながら、甘い関係など皆無に等しい自分たちが___と、思わずにはいられない。後ろから抱きつくなど、黎深はどう思うだろう。きっと、多分、絶対、「狂ったか」と馬鹿にされるに違いない。一生分の弱みを握られる羽目になるだろう。
そうは思ったものの、手を伸ばしたくてうずうずするのは止まらない。白い夜着にさらりと流れる長い黒髪にも触れたくなって、ほどんど無意識のうちに百合の右腕は静かに黎深へと伸ばされた。
「!」
びく、と驚いた黎深は肩を揺らした。不意に背後に何か動きを感じたと思った途端、するりと髪を撫でられたのだ。妻の行動を不振に思った黎深は眉間に皺を寄せて首をひねり、「おい」と声をかけた。
「何、してるんだ…百合」
「髪。相変わらず綺麗だなって」
答えになっていない返答に、黎深は一層皺を深くする。しかし百合は無表情のまま、少し俯いて丁寧な手つきで髪を撫でたり梳いたりしてくるので、何か言ってやろうと口を開きかけた黎深であったが言葉が見つからず、その手を振り払うことも出来ず、ただされるがままになっていた。
僅かに緊張の糸が張った雰囲気に、一層沈黙が重く感じられた。耐え難い状況だが、ここからどう抜け出せばいいのか分からず、黎深が悩み始めた頃、再び背後で百合が動いた。そして次の瞬間、彼は凍りついた。
「……」
「……」
「…百合…」
「……」
「…何の、真似だ」
「……わかんない」
後ろを振り向くことも出来ず、黎深はただ視線を泳がせてながら必死に冷静を保とうとした。しかし、きゅっと両手で背にしがみつかれ、さらには額まで寄せられて、さすがの紅黎深も動揺を隠せない。意味が分からんっ!何がしたいんだ…!?という言葉すら出てこなかった。
何やってるんだろう、と己の行動が理解出来ない百合自身も、黎深同様酷く困惑していた。黎深の髪に触れて、撫でて梳いていたら、より彼の背中に触れたくなって、思わずこんなことをしてしまった。広い背にそっと押し付けた額に温もりを感じ、急に恥ずかしくなって、一気に顔に血が上っていく。耳まで、熱い。ここまでくると、今更誤魔化す言葉も見つからず、手を離すことも出来ない。完全に、後には引けなくなってしまった。ああもう、ホントに何がしたんだろう、と思う。
未だ困惑していた黎深であったが、少しだけ冷静さを取り戻しつつあった。短く息を吐いて、静かに百合へと問いかける。
「…百合」
「…ん?」
返ってきた返答に負の色は無い様子だが、声は小さかった。それだけ感じとって、黎深はさらに言葉を続ける。
「何かあったのか」
「…別に、何も」
「じゃあ何だ」
調子を取り戻してきたのか、いつもの彼らしい声色に百合は少しだけ笑った。その笑いにどうやら相手はむっとしたらしく、「答えろ」と催促される。どう答えようかと考えたものの、良い言い訳も思いつかず、正直に答えることにした。
「ただ、ちょっと…引っ付いてみたくなったの。黎深に」
偽りの無い、まさに真実そのものの言葉だ。口にしてみるとやはり何だか照れくさくなって、百合は一層強く頭を押し付ける。しかし何だか阿呆くさくもなってしまい、半ばヤケになって百合は言葉を続けた
「別にいいじゃない、減るもんでもないしさー。一時の気の迷いってヤツだと思って見逃してよ」
おちゃらけた彼女の口調に黎深は鬱陶しそうな顔をしたものの、内心では「なんだ、いつも通りじゃないか」と普段と同じ彼女の様子に少しだけ安堵していた。
「見逃してやるからいい加減離れろ、眠い」
「む、何それ」
つれない夫の言葉に、百合は頬を膨らませた。もうちょっと気の利いた言葉をかけるとか、たまには奥さんを甘やかすとか出来ないのかこの男は、と思ったがすぐにそれは間違いだと気づく。
この男がそんな優しさの欠片どころか粉末も持ち合わせていようか、否、無い。というか、そんな黎深気味が悪い…そう思ったのだ。
「今何か失礼なことを考えただろ」
「な、何言ってるのよ…そうじゃないわよ」
不意に真実を見抜かれ、百合の声が僅かに裏返った。それだけで黎深は「やはり考えたな」と確信したが、それでもとくに何も言わなかった。というか、言えなかった。くそ、調子が狂う…っ、と心の中で舌打ちをする。
「…私は明日も仕事なんだ。いい加減離れろそして寝かせろ」
呆れたようにため息交じりにそう言われ、百合はしぶしぶ諦めることにした。
「…ホント、ケチね」
「フン」
名残惜しくも黎深の背中から百合が離れていく。ほんの一瞬、黎深は一抹の寂しさようなものを感じたがすぐに馬鹿馬鹿しいと思い、寝ようと身体を横に倒した。
「お前も早く寝ろ」
「はいはい、おやすみなさいませー旦那様ー」
やる気の無い返事と共に、明かりを消して、もぞもぞと百合も身体を横にする。天井を仰ぐように寝た黎深は、急に横を向いてしまい、百合に背中を向ける体制をとる。その様子をちらりと横目で見て、百合もまた黎深に背を向けて、眠る姿勢をとった。
「おやすみ、黎深」
「…」
互いに背を向けたまま、けれど僅かなぬくもりを感じて、二人は眠りへと落ちていった。
ぬくもり
背中好きなのは管理人です(笑)
ささやかな旦那様と奥様のふれあい、ということで(一方的ですが)
夫婦らしくない、のに何故かラブラブ(?)なお二人でした。
おまけ(百合姫寝たまま、起きてる黎深様)はコチラ
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